大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年08月07日(金)
ハイデガーをデカルトからアリストテレスに遡行したと一面的に捉えると、日本の柄谷行人のように、デモクラシー以前のイソノミアに遡行してしまう。しかしじつは、ハイデガーこそ、デカルトが権力を通用させた無規定性を最終的に解消し、最も非ギリシャ的なのではないかと思える。@inja650rr
タグ:
posted at 18:46:39
この過去にとらわれるな、前向きに未来を見ろ、というのがポジティブシンキングのようで、未来とは死のことで、その死を恐れず受け入れろ、というのが日本人が過去に陥った総玉砕みたいな危険思想に聴こえるのだろう。しかし過去にとらわれるのは単なる信仰だという。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 07:42:00
したがって、想起や流れ去る過去だけを時間規定とするカントの認識論では、存在論的には造物主が前提されているに過ぎない、というのがハイデガーの主張。人間が将来に同一化する存在論によってはじめて、造物主を前提としない、過去に縛られない時間規定が得られる。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 07:39:54
有限者は神のように認識対象の造物主ではないが、対象を同一視する認識論は、カントの言う再生的想像力=いわば想起では、対象がすぐに過去に過ぎ去るので、時間規定としては不十分。すぐに現在化する将来の同一性を時間規定にする存在論であるべきだ、という話ね。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 07:33:39
カント講義書は主著以後なので主著の用語で綜合できるが、本来性というのは時間規定のことだから、カントが人間(派生的直感)は神(根源的直感)ではないとするために、想像力を過去の想起としたのは非本来的な時間規定で、生産的想像力こそ本来の時間規定だ、という。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 07:33:14
人間はカントの言う根源的直感(神の産出力)を持たないが、カントが想像力(構想力)を再生的綜合(過去の想起)と規定したのに対して、本来の時間規定からは、生産的想像力(既在と将来の等根源)だ、というのが講義書。それがカント書の有限性の話に解消していく。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 07:09:26
体系に触れようとする本だから、いくら主著のような悪文ではないとはいえ、見取り図がないと、何を読んでいるのか迷子になるよ。また体系的だからこそ見取り図が可能なのだ。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 07:03:04
カント講義書とは、根源的直感(カントの言う神の能力)を持たない有限者は、カントの言う再生的想像力では通俗的時間規定だが、本来的時間規定からみれば、生産的想像力を有していることになり、それが自然と歴史という超越論の根源規定だという話。@LitoSnowfield @estei_st
タグ:
posted at 06:55:07
カント講義書は主著(存在と時間)とは違い、本来性などハイデガー用語が最低限だから文が読みやすいのだが、あえて本来非本来で見取り図にすると~ (続く) @LitoSnowfield @estei_st
タグ:
posted at 06:52:18
リトさん、カント講義書(ハイデガー『カントの純粋理性批判の現象学的解釈』)の見取り図は、このあたりを道標にすると、掴めるはず。(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield @estei_st
タグ:
posted at 06:46:18