ススミハジメ
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- 自己紹介 どこかでなにかをしてる人、あるいは老害おじさん。趣味は読書と音楽です。私的な持続的興味は「人間の身体的限界性=創造性と観測の限界」「モナドと波の思想」「不可知の存立」の三事です。 http://note.mu/susumihajime
2019年06月09日(日)

@HIRAYAMAYUUKAIN いつもお世話になっております。
「穴山信君などは、龍朱印だけを捺した判紙の所持と、発給を認められていた可能性を考えるべきでしょう」というお考えは勉強になりました。『甲陽軍鑑』で信玄が花押付判紙八百枚を用意した逸話を思い出しましたが、戦陣でも同様な事例が存在したという事でしょうか。
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posted at 00:15:59
2019年11月04日(月)

『戦国史研究』第62号の羅針盤
栗原修「上野国沼田地域の領主渡辺左近丞について」
上杉→武田→織田に服属したと推測できる渡辺左近丞に景勝が帰属条件として「倉内(沼田城)」の乗っ取りを命じた史料。本能寺の変後の滝川儀太夫と藤田信吉との争いに関連し、混迷を極めた事態であったと再確認。
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posted at 17:33:49

遠藤珠紀「織田信長子息と武田信玄息女の婚姻」
明智光秀関連で、近年では比較的注目されているように感じる史料。本史料が発見された『土御門文書』には本記・紙背文書に天正期における丹羽長秀・長束正家や若狭武田氏関連の遣り取りもあるという。『丹羽長秀文書集』を後ほど確認する。
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posted at 17:42:25
2019年12月07日(土)

柴裕之「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』2019年12月号)を読む。
信雄の改易の理由について、「暗愚」という個人的資質ではなく、「関東・奥両国惣無事」を徳川家康とともに担うべきであった「豊臣大名」としての織田家の在り方に対する折り合いをつける事が出来ず、国替を拒否した事に求める。
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posted at 21:03:02

また、信雄の出家は那須配流前ではなく、赦免を得て道後に隠棲する時点であった事、そして、その出家において「豊臣大名」として織田家の再興が成された際に、秀雄へと家督を譲渡した側面を強調する。
近世大名・織田家の祖として大坂の陣以降も生き延びた信雄の行き方もやはり面白い。
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posted at 21:12:42
2020年07月21日(火)

第五章 「房相一和」と戦国・織豊期東国社会
正木憲時の乱直後に一方で後北条氏と、他方で反北条勢力と連絡を取り合っていた事や、小牧・長久手合戦後に羽柴方と後北条方(徳川と連携)と両者に対して連携を試みていた事など里見氏の動向を見直してみると、真田昌幸の表裏に重なって面白い。
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posted at 00:38:49

真偽不明ではあるが、上総の鋳物師である野中氏が里見氏と北条氏との和睦を斡旋したという伝承が興味深かった。在地の国人勢力による斡旋はよく見かけるものの、職人集団などによる和睦斡旋は寡聞にして聞いた事が無い。ただ、実際に在地より上位権力が規定を受ける事もあり得るとは言えそうか。
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posted at 00:49:30

「半手」(境目の両属地域)について、大名間和平及び国分で「半手」が成立すると捉える研究もあるが、本稿では和睦成立以降に「半手」が消滅する地域も存在すると指摘しており、「大名間同盟・国分の質的な差によるもの」と推測する。その質的な差の淵源が気になるが、其処が村落研究の難しさか。
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posted at 01:06:16