いろは
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2013年06月18日(火)
海音寺潮五郎さんと井伏鱒二さんは共に三田村鳶魚に師事した仲です。三田村鳶魚は「海音寺潮五郎」というペンネームの由来を本人以上に知っていたという不思議な人でもあります。これについてはこちらで。 www5d.biglobe.ne.jp/~s-yuki/itsuwa...
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posted at 21:15:33
榊原康政ってどんな人?
神「色っぽさがヤバイ」
榊原康政の祖母「色気が溢れてる」
榊原康政の痴漢「世界一愛してますっ」
shindanmaker.com/360163 おいこら。
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posted at 19:24:28
2013年06月17日(月)
何故だ・・・ッ!!!何故Bボタンを連打しなかった榊原・・・ッ!!!!そのような愛らしき姿では、関ヶ原であいまみえたときに、この刀が鈍るであろう・・・ッ
多分(真顔)
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posted at 00:00:33
2013年06月16日(日)
……恐かったろうに。二本松藩の少年兵は本来15歳と16歳で構成されていたが、藩存亡の危機にその制限は引き下げられ、12歳から17歳の少年が戦場に立たされた。
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posted at 20:35:17
(*`・ω・)彦根城の西の丸三重櫓は、小谷城の天守を移築したものという伝承があります。 小谷城は落城の際、燃えておりません。ですから、父上が落城間近まで過ごした天守が移築された…なんてこともあるのかもしれません。
(*^艸^) 昭和の解体修理で痕跡は確認されなかったそうですが…
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posted at 09:14:31
(*`・ω・) 彦根城の天守は、京極高次さまが初と共に籠城した大津城の天守を移築したとも…。晴れの空の下、本当に綺麗です♪写し絵撮りすぎてしまいます。
(*^艸^) 初もこの天守を見ていたのでしょうかっ!? p.twipple.jp/ABb2w
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posted at 09:03:01
(*´・ω・) 姉川の戦いの後、佐和山城は織田軍に包囲され、八か月の激戦の後、磯野殿は織田軍に降りました。その後、佐和山城には丹羽さまや、石田さま、井伊さまが入られたのですね。 p.twipple.jp/fIubv p.twipple.jp/Nt1u3
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posted at 07:55:11
佐和山城っ! (*´・ω・) 昔、佐和山城は、浅井家の支城でした。姉川の戦いで織田軍に深く切り込み、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話が残る、磯野員昌殿が入っておりました。 (*>▽<)ノシ 磯野殿ーっ♪おはようございますーーっっ♪ p.twipple.jp/jXmWl
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posted at 07:51:27
2013年06月15日(土)
2013年06月14日(金)
2013年06月13日(木)
なんか隠居でここに来るの久しぶりだからの、口調が迷子なんだの。
あっれー?儂、どういう感じだったっけ?
もしかして、もっと渋くてかっこよくて、きゃーきゃー言われるようなそんなあかうんとじゃなかった?
今ならさりげなくきゃらちぇんじしてもバレないかも、大丈夫いけるいける( )
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posted at 23:25:50
皆には内緒って言ったのに!言ったのに!> ξξキ`・з○)p RT @AKC55_analog: がらけーのことを藤孝が「がらがらけーたい(お子様も大喜び)」の略だと思っていたらしく一頻り笑っています。
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posted at 19:20:47
合理的な人間でしたから、友情の為に家を潰すなんてこと、するわけなかったと思いますけど……、それでも、ここでかりそめでも、言えて嬉しかったです。
\細川藤孝、友の為に、助太刀いたす!/
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posted at 18:56:34
煕子さん……。 RT @Hiroko_kko: わらびもち、お召し上がりくださいませ。喉越し良く、ひんやりとして、美味にございまする。 AKC55_analog
p.twipple.jp/Hj8dt
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posted at 18:43:17
6月13日の誕生花 【山百合(やまゆり)】 花言葉:純潔: かなり遠くからでも香りが漂い、存在がわかる程の強い芳香。森の暗がりに光を照らすように香る花姿は、艶やかそのもの。 pic.twitter.com/xY4HyWcs6s
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posted at 12:46:21
家老沢山でうちも安泰かな。 RT @akc_hide3: Σいつの間にか増えてるううううう RT @sima_tama:
∩_∩ ∩_∩ ∩_∩
襖|;・∞・)。・∞・)*・∞・)
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posted at 11:10:01
続く)光秀の最期、農民に竹鑓で突かれたというのもどうか。『太閤さま軍記のうち』(太田牛一)は「棒打ちに討ちとめ候ひき」と棒で叩き殺されたとある。『多聞院日記』は「一揆たゝき殺しおわんぬ」と同様。『フロイス日本史』には光秀が金の棒を差し出して懇願すると、金を奪ってから刺殺とある。
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posted at 08:35:20
続き)光秀がどこで落命したかについて、金子拓さんから太田牛一の記録に「小栗栖」と書かれていると教えてもらった。太田牛一が書いているならだいぶ信憑性が出てくる。甫庵や明智軍記とはくらべものにならないから。あるいはこれら軍記物が牛一を参照したのかもしれない。小栗栖説も無視できない。
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posted at 08:32:27
続く)光秀が落命した場所を小栗栖とするのは『甫庵太閤記』『明智軍記』など後世の軍記物。一次史料は醍醐(兼見卿記、言経卿記、蓮成院記録)、山科(多聞院日記、高木文書)という具合で、小栗栖は出てこず、特定できているわけではない。これまでいくつかの拙著、拙稿でそう書いてきた。でも……
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posted at 08:30:42
新暦ながら、今日は山崎の合戦の日ですね。いまから431年前。敗北した光秀の命日かも。この日未明、24時を回ってから落命したと思われるが、当時は夜が明けないと日が変わらないから。ドラマなどでは、光秀がわずかな供廻とに馬上でいたところを竹鑓で突かれて落馬したように描かれるが違和感。
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posted at 08:24:55
織田三十六功臣って聞いた事が有るだろうか。殿の下で功を挙げた臣を特に三十六人選出して描いたものらしい。拝殿に其の一部が飾られておる。「織田信長公三十六功臣」という本で全員分見る事が出来るぞ。愛知、岐阜の県図書館には置いて有るな。 pic.twitter.com/GfbZMjfcbb
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posted at 04:10:17