大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月03日(日)
非公開
タグ:
posted at xx:xx:xx
なるほど、文学が言葉遊びじゃなく、アイデンティティー探しなのね。そういえばそういうがよく御大手予備校の模試でだされるなー。で皆解けないw @LitoSnowfield 大雑把に言えば、筒井さんは設定や状況で笑って、今の流行りは登場人物のキャラクターで笑う…みたいな違いがあるのかも
タグ:
posted at 00:36:04
そうそう、哲学だってそういう言葉遊びに近いものがあるのに、真に受けて自分探しとかしちゃう人が出てきてる。あれは危ない。(・_・;) @LitoSnowfield 文房具が宇宙船にのって彷徨う“虚構船団”も「どこが面白いの?」になりそうです
タグ:
posted at 00:37:02
哲学概念を観念、つまり言語操作の遊戯みたいに思えないで、自分探しがそこから出来ると思い込む危なさって、筒井が断筆宣言の時に問題になっていた、ポリティカル・コレクトネスのような言語の硬直と同じね。結局、読解力がないから、ポリコロしか眼中になくなる。単なるバカw
タグ:
posted at 00:42:42
ちょっと違うけど、こういう模試が最近やたら多い。読書で人生勉強するな、という評論ね。もちろん文学で自分探ししたら不正解で大学入れない、という模擬試験ww (^-^)/ t.co/ogY6wiSo @LitoSnowfield
タグ:
posted at 00:54:16
そうなのよ、人生勉強だとおもってるからね。一番すごかったのは、読書の仕方を教えて下さいというので、本屋で好きな本選んでこいといったら、自己啓発本を買ってきた子。目も当てられなかった。でもそれより目も当てられないのは、啓発本以外で啓発されちゃう人。 @LitoSnowfield
タグ:
posted at 01:21:06
現代音楽は中断された性交の印象を与える。あれがやって来そうでいてやって来ない。クライマックスはいつも不発に終わり回避される。不能のこの上なく見事な証明だが、しかし作曲家たちに責任はない。つまり音楽の行き着いた段階が、あの悲惨な息切れを、性交の欲望と不可能性を明らかにしているのだ。
タグ:
posted at 01:28:11
外なる対象の像は、その対象の在り方に従って形成される。そしてその像自身の性質が悟性の中でも働き続ける。だが「私」を知覚しようとするなら、自分を「私」に委ねるだけでなく、内的な活動を通して、「私」の本性を自分の内部の奥底から取り出してくるのでなければならない。
タグ:
posted at 04:06:25
t.co/rJs2XO6b ちょうどバブルの頃、現代思想はジャーゴンで遊んでいた。しかし本来、哲学とは存在論級の言語遊戯であり、寧ろ健全だったはずだ。それを今や悪者扱いにする風潮が気になる。思想を真に受けて自責に憑かれた世代が、説得のモーメントの罠にかかったようだ
タグ:
posted at 13:56:27
ところで、國分氏のスピノザ論も、説得のモーメントや自責の克服の言説に見える。この東大理二生t.co/Outgp7so の、むしろ柄谷行人のデカルトはスピノザだ、がよく要約できていると思う。説得するより遊戯する。本当の自我性とは、自責の強迫に憑かれていないのだ。
タグ:
posted at 14:07:10
t.co/Outgp7so 存在論級の言語遊戯、神証明は懐疑論者を説得しない。だからデカルトの妥協の産物は、スピノザのような観念=存在論級言語の遊技者のターゲットとなる。柄谷行人もデカルトをターゲットにスピノザ化しようとした。そういう健全が困窮し今や自責の時代だ。
タグ:
posted at 14:07:56
冷戦後、雇用されない人々は、存在論を懐疑し、道具を作るためには先行する道具がいる、という哲学の無限ループ、つまり懐疑論に陥った。それがモラルを自分に適用し自責に囚われる人々だ。そういうものは単に自我とは呼ばれない、それだけだ。彼らは文学も哲学も自己啓発書のつもりで読む。
タグ:
posted at 14:23:51
バブル時代には、哲学も文学も、存在論級の言語遊戯だった。それは労働としての近代がそこそこ潤っていたからだ。柄谷行人を見ればよく分かる。それが崩れると、とたんに言語遊戯は懐疑論に取って代わられる。だから國分功一郎氏のスピノザの方法が、このタイミングの言説なのだろう。
タグ:
posted at 14:31:24
自分が悪いという自責する雇用されない人々は、読書に自己啓発しか期待していない。彼らの言う懐疑論は実は懐疑論にもなっていない。だから最近の受験国語では、ほとんどその問題ばかりが出題される傾向にある。誤謬は正される必然性があるからだ。t.co/AEERalYd
タグ:
posted at 14:34:19
量としての実在性(realitas)に対して、属性量による存在(esse)。デカルトが(事物を)実在性の量(リアルさ)で神観念化したのに対して、量をいわば属性化することで、観念(言語)にいわばア・プリオリにある神を単に証明すること。 t.co/ASBoj4lA
タグ:
posted at 20:22:43
非公開
タグ:
posted at xx:xx:xx