大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月13日(水)
幽霊は二元論だから怖くないけど、宇宙人はほんとに草葉の陰からでてきそうで怖い((((;゚Д゚)))) @nakagawasun "こわい(・・;) RT「宇宙人に注意」 #自分のピクチャフォルダの中で一番意味が分からないものをうp t.co/Q0jOzEVV"RT
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posted at 00:46:49
うん、改めてフッサール読んだら、デカルトは我思うって定義しようとして、身体とは別に心を霊魂にしちゃった(心身二元論)、あいつは困ったものだ、って書いてあったよー(^-^)/ @nakagawasun あら(^^)。幽霊が二元論?(今のところ全然わかってないけど、おほほ)
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posted at 01:06:54
デカルトの省察だと因果律の定理が不徹底になり、「思っている我」を実体化(霊魂)→二元化させてしまう。なのでスピノザの方法は、証明を破棄する証明をする平行論になる。フッサールは省察しなおして、証明自体の停止(エポケー)と世界を二元化させちゃう。みんな帳尻が合ってしまう。
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posted at 01:44:43
デカルトのように幾何学的公理にこだわって、思っている我を心(スピリッツ)のように実体化されるとえらいことになるわけだが、音楽もスピリッツになった時(音楽的に)つまらなくなるからなー。スピノザみたいに(自己)証明を破棄しなきゃだめよー(^-^)/
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posted at 08:31:25
うん、あちらの哲学は、根本原因を汲みつくす言葉は書けるか?って話だからね、それができなくて、色んな物(化物)が飛び出すよー(^-^)/ @nakagawasun 因果律?電池があと20%
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posted at 09:16:39
國分さんがカルチャースクールで、一般向けにスピノザの方法講義をしてるみたいですよ。なんか毎回、感極まって泣く人がでるらしい。それだけ哲学を解決してるのかしら。あるつっかえが抜けるのは確かだと思います。@nakagawasun ありがとーございます~♪(^^)通信教育講座みたい~♪
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posted at 13:54:59
デカルトの情念VSスピノザの感情t.co/6x0wzS8p やヘーゲルの精神t.co/6yqoXdEz は國分本には出て来ません、その前提となる証明の破棄の話です。証明を破棄できないと情念や精神になるのでしょう。@nakagawasun
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posted at 14:15:00
疑わなくてもすむための原因を証明するのが彼らの哲学ですよ。それをやめられない。たぶんスピノザだけが証明をやめる証明を見出したという感じ。フッサールですら判断停止と言いつつ証明を続けますから。@nakagawasun しょうめいのはき…
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posted at 14:32:31
ハイデガーといえばフッサールの第一省察の付論「デカルトは超越論的な転換に失敗した」では、デカルトの先入観が説明されているけど、スピノザの方法のように、それを実体との関係で証明(証明の破棄)できてないんです。t.co/yYCfvcXQ @nakagawasun
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posted at 14:38:33
たとえばデカルトの空の例や太陽の例に対してスピノザがどうしたとか、そう読むといい。でも太陽の例に対してスピノザは幾何学というのだが、それも最後に裏切られて、幾何学定理を片付けて(実体の証明手続きの破棄)次に進むのがエチカだ、とかなるのだけど。@nakagawasun
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posted at 15:17:57
スピノザを國分流に「実体の放棄」と捉えた上で、フッサールの省察を読み進めると結構楽しめる。フッサールはデカルトが、疑いの余地のない前提として、超越論ではなく超越的(二元論的な)我思うを置いたというのだが、スピノザが相対化したように、それは思っている我=実体という等式のことだ。
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posted at 17:54:51
デカルトが我=実体と定義したことになるのは、スピノザの再定式化によれば、実在性の量を省察=分析したからに過ぎない。神を実在性の量(リアリティー)とすると、実体は神ではなく、その対立項の「思っている我」の側に布置される。しかし等号で結ぶ鋭さは得られない。
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posted at 17:57:55
それに対して、フッサールは、そうした実体の等式そのもの、つまり「疑いの余地のないこと=実体」を、「思っている我」と等号で結ぶ、という関係性を保留にしようとしているのだろう。
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posted at 18:00:36
捕捉すると、フッサールによれば、デカルトが「思っている我」=「疑いの余地のないこと」=「実体」としたというのは、心身二元論でいう心の実体化、霊魂のようなものに、「閉ざす」ことなのだという。この霊魂、実体=心が、超越的な主観と呼ばれる。
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posted at 18:05:11
では、フッサールは、エポケー(判断停止)を、「疑いの余地のないこと=実体」と等式で結ぼうとしているのだろうか? つまりエポケー=実体なのだろうか? おそらくデカルトと同様、等式で結ばないために、分析的な省察を行なっているのだろう。
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posted at 18:09:55
通常、スピノザは様態(神を実体という本性にし、我を本質を表現する様態)にしたと見做される。この捉え方は、エポケー=実体ならぬ、エポケーで実体を隠す書き方=分析(超越論)で、やっと可能になっている。このように分析とは、実体との等式の留保のために与えられる言語だ。
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posted at 18:16:27
スピノザは実在性から量を捨てることで、実体の証明を終結させる。つまり従来は、実体が量と等号で結ばれていたということだ。分析(超越論)やエポケーは、じつは量を実体と等式で結んでいる、ということなのだろうか?
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posted at 18:25:32
余談だが、思考停止ならぬエポケーは、私達にはむしろ自然だ(もちろん、フッサールは自然を、デカルトのような、霊魂=実体、つまり実体のほうに置くのだが)。その自然的にエポケーな私達が、西欧文明に接触してまず獲得したのが、超越的な主観、つまり霊魂的な内心だったのも興味深い。
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posted at 18:34:53
とにかく困ってしまうのは、デカルトが心を実体と等式で結ぶために、実在性の量(リアリティー)にされてしまった神という語彙が、明治になって日本語に流入してしまったことなのだ。そのために、内面が生霊のように実体化し、子供たちが読解できなくなる日本語が生まれたのだ。
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posted at 18:43:01
彼らには等式は「疑いの余地のないこと=実体」なのだろうが、もちろん私達には「実体=疑うこと」(実体とか言うから疑いが生まれるんだろ)にしか見えてない、という、このなんとも厄介な話。だからみんな思考停止したり、自分の内面に閉ざされてしまうのかしら?(^-^)/
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posted at 19:19:26
「疑いの余地のないこと=実体」というのは、だから実際にはどれだけ、という量になってしまい、原発をめぐっては、こんなt.co/SuZLUEGc あほな言い方が生まれるんだろうねー。
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posted at 19:22:08
ちなみに、フッサールの省察で、意外に隠し味になっているのが「通用するかいなか」という述部。もちろん國分氏が『スピノザの方法』で問題にしたデカルトの通用する神に、呼応して見えてしまうのだが・・。
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posted at 19:29:53