大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年12月01日(土)
このメルロ論入ることt.co/RoMU5pdX は、入ること一般論。そのように入ることを語らせてしまうのが原理。それで入れないと、読むのを諦めて原理に辿りつかないわけだけど、しかし、じつは読まないでも原理はある。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 00:20:30
しかし、その原理的というのも、いまツイートしたとおり、実体と表象とか、本物のと偽者とか、本人と言説とか、部分と全体とか、対立項でおさえればよいだけなのだ。それが捩れると偽者になってしまう。本人が聞いたら、わかってねーじゃないか、となる。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 01:21:45
たとえば、この前の模試でいうと、コミュニケーションというのは、こういう分るを分ること。以前スピノザの方法でツイートしたように、分かり合えるみたいな感じ。それは文字でしか確かめられない、と脱構築させたのが模試。声では共同体=前近代になるとされていた。@sunamajiri
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posted at 01:27:37
ちなみに先程から話題になっている、入ること(原理への入門)で引き合いに出されているヘーゲルというのは、序文が長いので有名なのだが、ヘーゲルはいわば、スピノザを読んで入門書を書こうとしている状態。そういう文を読んで分るか?ということ。@sunamajiri
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posted at 01:29:25
つまり、心が分らないというのは、文や本を単語=観念で、別物として読んでしまっているということ。そこには確かに心はない。本が心に見えてくるというのは、単語に躓いて文を誤読しないということに尽きる。それを先程の入門と言い換えてよいと思う。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:00:03
ところで、このように説明するのにも、観念語が不可欠。今度は心と言い換えている。しかし、その心という単語自体に意味があるのではない。このように観念を函数のように運用する能力があるかをテストするためには、文にさせるというのが日本の国語。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:04:44
受験生にとって重要なのは、単語となった概念や観念に躓くな、ということ。たとえば神という単語に躓いたら文が読めなくなる。ただそれだけ。出題者はそこだけをテストしようとしている、ということを常に念頭において問題を解くこと。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:07:25
現代文では、躓きやすい単語を意識化させる。たとえば10年ぐらい前までは、記号や表象だったのが、いまや文字や身体が実体とされるような評論が頻出している。そのような単語に躓くかどうかをテストされるだけなので、数学などより対策がしやすい。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:10:47
その理由は簡単で、文字や身体まで記号や表象とするような、日本的ポストモダン(時代的にはバブル時代)が、徹底的に批判されている。そのために、表象に埋もれた実体、という主題が台頭している。しかしそれは原理的だ、ということ。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:15:32
ツイートまとめ@FB(^-^)/ 本にしか心がない、を読めないということ。単語に躓き文を読めず心に到達できない人は、社会人になり本を読む暇がない。一方、受験生が文に入門するということ、をめぐるツイート流れ。
t.co/EUiQeHIu
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posted at 02:34:06
その、フィラーからファンクションライン、そしてラインのリズムフィギュアからモードへ、という引き裂かれが一昨日のフルート授業6時間だったよーww(^-^)/ @LitoSnowfield 両方が好きな私は困惑したものでした@bassfukawa
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posted at 02:50:24