大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2013年06月18日(火)
物語は、受け手には逐次的でも、語り手は全智の全て分かり終えた時点からしか語り始められない。なので、たとえば大人目線でアイドル?という受け手の半信半疑というのは、語り手が語り出した時点から、すでにないのですよ。それが物語というものなのです。@LitoSnowfield
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posted at 20:20:56
ことさら震災後、日本にはアイドル=偶像しか残っていないんです。フィクションが架空の語り部を設定するとしたら、アイドルしかない。それ以外に、語る行為=日本文学の再生がないほどだ、という意味でアイドルなんです。震災がそれを引き出したんでしょう。@LitoSnowfield
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posted at 20:34:11
それがないと(ドラマ的にも)リアリティーにならないのです。秋ちゃんにとっては、アイドルは海女と同じだから。たしかに神話的だけれど、それでは近代以降のドラマのリアリティーにならないんですよ。それと混同すると誤読します。@LitoSnowfield
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posted at 20:50:52
近代というのは物語のリアリティーのことなので、神話的に予め選ばれし偶像ですら、リアルな業界だオタクだというドラマがないと、近代性を再生できないんです。でも秋は物語に選ばれているが、春子は選ばれていない。だから業界とか自意識に拘泥するんです。@LitoSnowfield
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posted at 21:00:00
他人の心情に拘泥するのは、理路が間違ってるから。なので日本の国語は小説心情読解が、文学という学科である以前に国語twitter.com/simauma_note/s... の論理性なのです。おそらく物語の実在性の量を、近代=確信にするキリスト教がないからなのかも。@LitoSnowfield
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posted at 21:09:10
そうです、日本では日本近代文学の小説の心情読解が、古典から脱却させる言文一致=現代文の国語の授業になり、それは、けっして文学研究ではない。心情に拘泥し実在性を確信できないと、国=国語が滅ぶからね。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 21:16:32