大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年02月20日(金)
ハイデガーが「意識」というフッサールの「根源語」をどうやって回避したの問題だが、フッサールの「純粋意識」というのは根源語なのだ。純粋性が問題なのだが、純粋意識は「純粋な意識」といったことではない。先取りして言うと「純粋起源」のことなのだが。@LitoSnowfield
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posted at 02:41:03
純粋性というのは簡単に言うと、一つの項目を立てれば解決することをいうのだ。コギトでは神観念要請だが、それとは別に「起源」という根源語を立てると、要請を却下できる。そのことを「純粋性」というのだ。私の言葉で言えば、いわば「純粋起源」なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 02:42:00
コギトでは神を要請するが、エポケーでは起源を要請する。純粋語彙の移行なのだ。斎藤慶典本では2章でフッサールのデカルトとの違い。それを彼は形相的還元の前の超越論的還元の順序性と言ってるね。純粋意識とは、純粋な意識内容ではなく、起源という純粋性のこと。@LitoSnowfield
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posted at 02:42:54
高校生に教えるように素朴に言い直すと、神という対立項の代わりに、起源という語彙を対立項に代入した状態なのだ。したがって、フッサールの超越論的還元ではまだ、ハイデガーの「等根源性」に至っていない。しかし、純粋性を純粋起源に置き換えれた、という段階。@LitoSnowfield
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posted at 02:43:54
とはいえ、コギト(純粋思惟)や純粋統覚(カント第二版)では、神が要請されているのに対して、純粋起源の代入では、神の要請を括弧に括れているのだ。その純粋意識が、意識という語彙を括弧に括って、存在の等根源性というハイデガーには、あと一歩なのだろう。@LitoSnowfield
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posted at 02:44:44
以上、訂正ツイートし直し。コギトにはない起源の純粋性がドイツ語にはあるから、括弧に括る根源語を得られたということ。それ以下は、今朝ツイートしたとおり。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 02:47:00
斎藤慶典フッサール、三章のハイデガーの超越論的構想力に至る二章末尾、西田幾多郎を与格の無にした、永井均の独存論に着地した。まずはそこに向かう気がした。いわばハイデガーのカント書未満という按配だからだろう。@LitoSnowfield pic.twitter.com/Aa4KKbtWgl
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posted at 03:39:05
カントの先験性を無規定性に括弧に括ったフッサールの超越論性が、フッサール自身によって「超越論的独我論」と呼ばれるが、それは通俗的な独我論ではなく、永井均がいうような独在論だろう、という話。二章末尾は三章より難儀。これで超越論的構想力への準備が整った。@LitoSnowfield
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posted at 03:44:27
斎藤慶典フッサール二章。カントの超越論性にある先験性(経験の可能性の条件)を括弧に括ったフッサールの超越論性、という整理の仕方もスムーズ。先験性から純粋経験へ超越論性を移行させる、ということ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/TscEw3cgHo
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posted at 04:08:24
鍵RT @jeanbeauty2 カント書では、形而上学ては、一般と特殊とに、別れて、一般のほうでは、特殊が、提供する経験的なものを超えて超出が、行われるとあります。この超出という言葉に、ひっかかっています。
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posted at 15:05:53
門脇訳(創文社全集)では「超出」になってますか、木場訳(理想社旧選集)では「超越」のままですね。結論からいうと、フッサール以降から眺めた「超越」なので、カントの超越と混同しない訳語を当てただけでしょう。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/f0dJcMJivA
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posted at 15:07:19
ちょうど斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』 twitter.com/sunamajiri/sta... が、第三章で超越論的構想力を扱う手前の二章で、フッサールの超越を、カントの先験性をカッコに入れた、というのを彷彿とさますね。つまり超越論の厳密化のようなものです。@jeanbeauty2
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posted at 15:08:54
『カント書』の手前、『ライプニッツを端緒とする論理学の形而上学的始元諸根拠』で、領域存在論=存在者の全体=被造物への企投(全智の視点)から、全体における存在者への転回を「超越」とする理路は丸山文隆 twitter.com/sunamajiri/sta... が正確。@jeanbeauty2
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posted at 15:09:39
集約すれば、カントではコギトが経験への超越、フッサールでは先験性への超越、ハイデガーでは、領域存在論=被造物に対する造物主的全智からの転回が超越です。twitter.com/sunamajiri/sta... @jeanbeauty2 pic.twitter.com/AGRXUvQQCX
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posted at 15:11:37
創文社は見れないので、今後は節数を明示してください。カント書論は内外ともなぜか触れたがらない。従来研究でも、存在者の全体を領域存在論とするかどうかだけですね。現代思想では転回=超越は当然ですが。丸山原注より。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/GOzPpRIaQg
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posted at 15:19:43
そこは要するに、はっきり申し上げて、カントの超越論=先験論の、フッサール的な超越のことを、門脇訳では、木場訳に対して「超出」と訳出した格好にみえますね。@jeanbeauty2 単に経験的に捉えられる世界を越え出て、その背後にある世界に、という意味の(超出)なのか。
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posted at 15:52:19
鍵RT @jeanbeauty2 それとも、もっとそこに、複雑なカラクリがあり、個々の射影を統合するとか、一つの実体を、想像するといった、ことが、あるので、それを鉤括弧でくくり、特別な意味のある超出と、いったのかなど、考えてました。
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posted at 16:08:55
いやいや、ハイデガーはフッサールtwitter.com/sunamajiri/sta... がカントが混乱するアリストテレスの超越範疇を整理した後の人なので、カント的な超越範疇の混乱は、『存在と時間』第二部の『カント書』では駆逐されてると思います。@jeanbeauty2
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posted at 16:10:55
ところで、その士族のエトスには、メリトクラシーが曖昧に見えているという問題は、先日twitter.com/sunamajiri/sta... の東のインタビューのいわば主題だったんですよ。@J_J_Kant pic.twitter.com/iIeUjnSUop
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posted at 17:06:57
ここにはリベラルであることの問いが、twitter.com/_pilate/status... のようにある。しかし東は末尾で、「子供にとっては必然だが親にとっては偶然だ」と様相論を超えるのです。これはタブララサというアリストテレス的な範疇が齎すリベラルを葬ることです。@J_J_Kant
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posted at 17:13:46