大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年10月10日(土)
いわば隠者話法が自己完結や日和見に聴こえるという声を聴くのだが、単なるスーパーフィロソフィ^とも厨二哲学とも思えない。そう思っていたら、隠者君がそれをシュレディンガーの猫と仏教的縁起で例示していたのを拝見した。bit.ly/1FWI1D7
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posted at 03:30:04
隠者氏とは、無記という規定で一致しているのだが、有と無を空にメタ化するものは縁起だという問題は、西欧で言えば根源規定の問題だ。西欧で言う存在論とは、言明的という意味だが、仏教では縁起を言語の規則の根源規定だとは明言しないので、何のことなのか不確定であるように見えかねない。
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posted at 03:30:23
一方、プラトンに対して規定の根源は時間に対する霊魂としたのがアリストテレスとすれば、カントはデカルトの要請を受けて、時間の一性の根源性に気づきながらも、自我や主観という領域性を根源とし、霊魂を潜勢に実体化したために、自由や平和の問題を派生したのだろう。
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posted at 03:30:41
そして、ハイデガー『存在と時間』では、ヘーゲルでは時間は点であるが、点とは時間という問いであるとして、答えを出さなかったことが主著の破綻とされるが、『カント書』で時間とは根源規定である、と表明=存在論したのだ。したがって、カントは不徹底だから単なる認識論に見えてしまう。
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posted at 03:31:44
このように、西欧的には規定の表明性があるために、メタボレー(何か具体的なことをいう自由という問題)を規定しやすいのに対して、恐らく仏教の縁起という規定では、因果なのか時間なのかも不確定になり、自由を規定できない不自由が表明されてるように見えてしまうということがあるのかも知れない。
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posted at 03:38:10
ただし一点だけ気になっていることがあるが、それを上手く言う自信がない。というのは、物理学の用語は、物理的領域の閉包性の表現でしかないので、適切な翻訳に手間取るはずだからだ。気になったのは、ここ twitter.com/inja650rr/stat... で量子論を実在論と規定している点だ。
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posted at 03:43:44
ちなみにエルヴィン・シュレディンガーは、ショーペンハウアーから、仏教というより、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ哲学に生涯に渡り囚われた人だ。量子学を批判したのはそのためと見ることもできようが、それも私の専門外だ。
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posted at 03:46:14
この前も話したが、仏の空が八百万を劣位に置くという、いわゆる本地垂迹説が、日本で八百万が仏の上位に立つ反本地垂迹に、いわばバイアスがかかるという問題も見逃せないのかもしれない。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 03:49:39
なので、単なる霊感だが、こうした幾多のバイアスによって、不確定性をいわば実体化するような誤読が、どこかに介在しているように思えてしまった。唯一言えるのは、仏教は無記だが、西欧では規定をいわば有記とするのだ。語り得るものは規定だけ、というハイデガーはその点で正しいのだ。
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posted at 03:54:03
結論めくと、おそらく縁起とは西欧的には、語るべき根源規定を語らないことで、それがシュレディンガーの猫ではないが、何か不確定性と見えてしまう、というようなことがあるのかもしれない。しかしそれは単に無記ということに過ぎず、おそらく規定の根源性は不可避のように感じられた。
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posted at 03:58:06
ハイデガーが時間を規定に置くというのは、恒常性、点性、今時間、ゼノンのパラドックスに陥る弁証法、時間は空間の止揚であるという幾何学を葬り、実存範疇から更に時間の様態を範疇化するような語だが、生命のホメオタシス(恒常性)や円環という話ではない。単に自由の話に聴こえる。
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posted at 04:17:48