大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月28日(土)
ところで、ウィトゲンシュタインが批判したアプリオリをハイデガーが語っているというのは最大の誤解だ。ハイデガーはアプリオリが無意識のような仮象ではない、というカント解釈を通じて、そうしたアプリオリ批判の原理を提示しているだけだからだ。twitter.com/lemoncyder/sta...
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posted at 03:14:03
二元論ありきで読む人には、こうしたアプリオリの無意識性こそが、科学的認識として語られてしまうのだが、そうした科学的認識にとって無意識にされてしまうもの、そこにアプリオリなどない、彼らの二元論批判は、むしろそういう話題だからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 03:18:40
まるでメビウスの輪だが、このようにしてハイデガーの形而上学批判期は、仮象のオイディプス性を、形而上学から抜き去ることに成功するのだろう。仮象((二元論や形而下)が脱去させていた形而上学から、仮象を脱去すること。
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posted at 05:47:00
こうしたschein(仮象)論から遡ると、GMでの「両義性からは形而上学は読み取れない」というような話、そしてカント書の一元論に遡行するわけで、それに対するあらゆる誤読のように、二元論=仮象に遡行しているわけではない。
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posted at 05:48:51
ここで、だいぶ前に導入した、潜勢と現勢という二分法について、潜勢とは予め二元論を読み込んだ思惟のことで、現勢とは予め二元論を排除した思惟のことだ、と概念把握しなおすのは、有用かもしれない。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 05:57:26
カント書が現勢的だから、ハイデガーは両義性(潜勢)からは形而上学は思惟できない、というのだが、こうした両義性が潜勢であり、カント書に現勢があるということが、ハイデガーの形而上学批判期に思惟されているということを見落とすと、そこでいわれる仮象としての形而上学となってしまう。
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posted at 06:18:51
極めて端的に、ハイデガーというのは無意識などないと言いたいのよ。無意識というのはデリカシーがないじゃないかと。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 06:19:55
入手しづらいGMという巻が来てからと言うもの、概論に換えた予備考察を読んだだけで、これだけ触発されて読書メモが止まらなくなってしまう。いい加減論文でやればいいのだが、ツイッターではじめて、哲学論文の文体、AはBに属する、これである。がでてしまったほどだ。
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posted at 06:25:02
私のツイッターではじめて、哲学論文の文体、○○という概念は、☓☓という概念に属する(含まれる)、(言いたいことは)これである。までではじめたから、そろそろツイートをこえはじめてるなこれは。止まらないのだが(笑)。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 06:30:23
「ハイデガー読解201701 オイディプス時間=仮象とは別の確実性が語る=触発すること」をトゥギャりました。 togetter.com/li/1075336
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posted at 22:06:22
ハイデガーはそれをカント書の一元論から語り、デリダはそうして語られたハイデガーの形而上学批判期を、ハイデガーが仮象としたオイディプス時間から逆向して読解する。その不確実性について。togetter.com/li/1075336
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posted at 22:31:12
科学的認識=確実性が無意識に封じ込めるもの。そうした仮象性を暴露するハイデガーは、二元論=潜勢から語らない。コペルニクス的転回とは科学的認識のことではなく、それがオイディプス時間へと蹴落としたもの、一元論から、じんわりと触発的に、語りを出発させることだ。
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posted at 22:31:35
コペルニクス的転回とは、科学的認識が無意識を生むことではない。ハイデガーのカント書は、そうしたカントが怖気づいたものに言及し、二元論からの読みの息の根を、完全に封じる。
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posted at 22:32:29
だからこそ、形而上学批判期においては、形而上学の仮象性が、オイディプス時間だと言い当てられるのだろう。そのような無意識の時間は何も触発しない。ハイデガーの語りは、ますますスムーズになっていく。
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posted at 22:32:55
思えば、無意識の科学とは、なんとデリカシーのないものか。科学的確実さの無意識とは、何に対する抑圧なのだろうか? 平明に言えば、出産が男子にとっては無意識だという、そういう陳腐な空想のことだ。しかし女子には無意識ではない。
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posted at 22:33:34
こういう想像力が、彼らには露ほどもない。そのデリカシーの無さに幻滅するばかりだが、さすがにアーレントがぞっこんになっただけのことがある。デリカシーというのはハイデガーぐらいにしかないのだ。
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posted at 22:33:58
二元論=潜勢から分析をはじめるのは、確実性=科学的認識ですらない。デリダは、ハイデガーの形而上学批判期を、後半のオイディプス時間から逆向きに読むが、二元論では二元論を払拭できない。そうしたジレンマは何も触発しない。
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posted at 22:34:23
つまり、ハイデガーがカントを一元論、現勢とみなすことで、形而上学の仮象性、オイディプス時間を暴露して、それを払拭することができたのも、デリケートでスムーズな語りがあったればこそなのだ。そういう確実性。それは全く異なる確実性だ。
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posted at 22:34:56
科学的認識が確実なのではなく、科学的認識が無意識へと追いやるオイディプス時間が不確実というだけで、そうした仮象を抜き去った時に、はじめて本来の確実性が出現すること。そのことは科学にとっての無意識という、デリカシーのない、そういう蒙昧とは全く異なる境地なのだ。
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posted at 22:35:31
私たちはつい、狭い確実性から、全く仮象でしかない不確実性を妄想してしまうが、ハイデガーはそうした不確実でデリカシーのない仮象を、完全に払拭しようとしたのだろう。togetter.com/li/1075336
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posted at 22:36:16
哲学はコペルニクスのような転回を望むがそれは、形而上学を仮象とする二元論ではなく、ハイデガー以後は確実に、科学的認識なるものが無意識化させる諦めを意味するのではなく、より確実な現勢=意識を触発する時間性となったのだ。togetter.com/li/1075336
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posted at 23:11:07