Twitter APIの仕様変更のため、「いいね」の新規取得を終了いたしました

大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

  • いいね数 11,694/13,358
  • フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
  • 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
  • Web http://www.sunamajiri.com/
  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
Favolog ホーム » @sunamajiri » 2017年03月
«< 前のページ12のページ >»
並び順 : 新→古 | 古→新

2017年03月04日(土)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月4日

近堂秀『カントの外在化プロジェクト』はストローソンのオックスフォード式カント教育を乗り越え、ハイデガーと同じように、カントの超越とは、言葉(言葉遊び)の外に出ること、つまり外在化だというのでよいのだが(外在化できているかは疑問だが)~ @BeTakada

タグ:

posted at 17:55:55

2017年03月19日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月19日

タカ基地さん、冨田恭彦の新刊カント本、そろそろ読了? いかがでしたか? 続けてハイデガーの物への問いを読むと、好対照で面白いのだが。冨田本のレビューが上がってますね。www.amazon.co.jp/gp/customer-re... @BeTakada

タグ:

posted at 00:30:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月19日

「あっさり「物そのもの」を否定したヘーゲルは健全な常識人だったということを改めて感じた。その一方、柄谷行人は、「物そのもの」を「死者およびこれから生れる将来世代の人間」というまことに独創的な解釈(皮肉ではない)をする。カント哲学を擁護するなら~」@BeTakada

タグ:

posted at 00:31:44

2017年03月23日(木)

非公開

タグ:

posted at xx:xx:xx

2017年03月24日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

また随分慎重に読んでましたね。イギリス人の言うことは、形式と内実は別だという退屈な話なのに、彼らはムキになって大真面目に屁理屈こねるから、話半分で受け流すのが良いですよ。数学で挫折する人が続出するお国柄、シェイクスピアも潜勢的だが。@BeTakada 冨田恭彦さん読了しました。

タグ:

posted at 00:39:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

ストローソンもお読みになると良い。日本人の大好きな理屈が満載ですよ。彼らの純粋と経験の二分法ほど、素朴な日本人に耳障りの良いものはない。分析的に純粋な形式と純粋な経験とかいうのだが、一向に内実を内包することである、綜合とか超越論という純粋性の話ができない。@BeTakada

タグ:

posted at 00:52:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

伊藤博文がドイツの帰りにイギリスで、ころっと騙されて明治憲法がああなったそうだが、それもはたして同型であって、不確定性以後の冷静さで言えば、イギリス人というのは数学者がそうであるように、自信過剰な大ぼら吹きの、とんだ食わせ物ばかりなんでしょう。@BeTakada

タグ:

posted at 00:56:27

非公開

タグ:

posted at xx:xx:xx

非公開

タグ:

posted at xx:xx:xx

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

どうも、形式化できない内実があると、頑固に思っているよね。たとえば、今朝久々に twitter.com/moroQma/status... がRTされているが、人間を限界と前提するようなイギリス人の頑固さを贔屓にする宿痾が日本には伏流してるのかしらね? @BeTakada

タグ:

posted at 13:54:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

冨田恭彦も、さらにはストローソンも、形式には内実がないという前提からか、内実を実在呼ばわりするカントのカテゴリーを「論理的な捩れ」、非論理と平板化してしまい、一向に実存カテゴリーの豊かさが見えてこない。単なる前提の前提という歪な話題に聴こえるからね。@BeTakada

タグ:

posted at 13:58:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

ざっというと、彼らは論理的・形式的に扱えない、内実=実在を前提にしているように聴こえる。その前提の仕方を論理的といいはじめてしまう。それが日本の世間では論理的という感覚になり、タカ基地さんがおっしゃりたいような宿痾を来すんではないかと、素朴に感じた。@BeTakada

タグ:

posted at 14:02:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

やはりカントはハイデガーの解説(GA41)が一番読みやすい。イギリス人は、カントには無自覚な暗々裏の前提があり、その発見に失敗したとの一点張りだが、ハイデガーなら、カントはそんな前提(内実=実在)を重々承知で、その前提からの脱却に十分成功したとか解説する。@BeTakada

タグ:

posted at 14:12:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

たとえば、ストローソンなら、カントのいう想像力は、バークリーの空想のことで(171p)、超越論は非論理だ、という前提を崩さないのだが、ハイデガーなら、構想力に感性的理性まで見出し、時間の地平すら見出してしまう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

タグ:

posted at 14:22:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

こうした差分が具体的に何であるかは、さしあたり、バレなければ真ではないとか、形式性とは建前のことだとか、あるいは、人間を限界づけておきたいとかいう、イギリスに潜勢するような、野蛮な女王蜂の思想を連想させて仕方がない。彼らの支配欲ほどたちの悪いものはない。@BeTakada

タグ:

posted at 14:28:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

アプリオリとは何であるかの解説は、ハイデガーのGA41が秀逸なのだが、イギリス人はどうしてもカントをアプリオリだと前提する。カントはというと、ロックこそアプリオリ主義で、だから経験すら可能にならない、野蛮な妄想者だ、と言い切ってしまう。イギリス人は危険だ。@BeTakada

タグ:

posted at 14:32:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月24日

生きるべきか死ぬべきか、なんて芝居がかった科白=意識は、戯曲文学だからヒロイズムなのであって、そうした意識の潜勢性、分裂症のようなものというのは、イギリス人だけで満足していればいいのよ。そこに親和性を喚起された日本人は、身動きの取れない病気のドン底だ。@BeTakada

タグ:

posted at 15:02:22

非公開

タグ:

posted at xx:xx:xx

非公開

タグ:

posted at xx:xx:xx

2017年03月25日(土)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月25日

個人の内心は自由なのだろうか? いや現実の人間はもっと謙虚なはずだ。そういう極限の負い目から頽落し、現実逃避した西欧人がかつて、霊魂の不滅を語ったのだ。そうした非本来的なものを批判するハイデガーを誤読すると、形而上学に何が復活してしまうのか、戦後はそれが明らかな時代だ。

タグ:

posted at 21:18:47

2017年03月26日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

カントの言っていることは簡単です。ストローソンをはじめイギリス人は、カントはそれを試行錯誤したが、やはり感性論にとどまり、実体の一性に頽落したとみるが、ハイデガーなら、いやカントはそのことが分かっているから、一性から超越した、というのです。@BeTakada

タグ:

posted at 01:34:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

まずヴォルフ~メイヤーという、旧来の一般論理学では概念結合で、それでは時空は感性論的に一性なので、そうしたアプリオリから超越する超越論的論理学では、一般性は概念上の問題になるというだけです。そこではもはやスピノザのような実体の一性がないのです。@BeTakada

タグ:

posted at 01:34:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

結局、概念の論理学では、感性論=一性となるのだが、そうした形式性には内実(対象性)がない。内実=実在に超越するには、図式論のように、一性=一般性を概念上に置き直し、知覚の予科から経験の類推をすれば、観念論論駁すら付随的になる。@BeTakada

タグ:

posted at 01:38:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

オックスフォードカント学のストローソンも、途中まではハイデガーと同じように、カントの分析論を解釈するが、途中から雲行きが怪しくなる。一性で語り始めてしまうのです。ハイデガーはカントにはそれがない、というのです。@BeTakada

タグ:

posted at 01:39:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

それというのも、ヴォルフといえば形而上学が非本来的なわけです。本来的形而上学とは超感覚、つまり感覚では捉えられない対象自体を云々すること、つまり形式的判断=陳述(ロゴス)の外、他者に関するものだからです。そうハイデガーは形而上学を本来化する(GM-59)。@BeTakada

タグ:

posted at 01:42:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

対象を感覚=判断できない。対象に関しては陳述できないのです。一方、物自体とかアプリオリというのは、そうした現象ならざるものについては、判断や感覚ができないことです。そう一括しておかないと、ロックのように原子論、つまり古典科学をはじめてしまうからです。@BeTakada

タグ:

posted at 01:45:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

巷では、超越の俗説が横行するんです。超越というとアプリオリや物自体や他者に、陳述が超越すること、というように頽落してしまうのだが、ハイデガーはカントを正確に解釈し、そうした言葉遊びから、飛躍することをカントの超越論的論理性だ、と言い直すのです。@BeTakada

タグ:

posted at 01:49:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

一般論理学にとっては、感性論(純粋直観である時空)は、スピノザと同じ実体の一性です。しかし、そうした言葉遊び(概念結合)というアプリオリから超越することである、超越論的論理学にとっては時空とは、図式論(一般概念)のことです。そこには一性がないのです。@BeTakada

タグ:

posted at 01:51:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

だから、ハイデガーはGA41『物への問い』で、カントの超越論的原則論を、感性論=一性という形式論理学、つまりアプリオリから、経験である内実=実在への超越として、超越論をバージョンアップするのです。ハイデガーのGA41はカント論の必読文献です。@BeTakada

タグ:

posted at 01:54:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

一性がないこと、これが客観です。主観的には感性論的に時空は一性、実体だが、それでは客観的時間規定ではない。そこで感性論から図式論へのバージョンアップが必要で、カントの原則論はこの図式論の後なので、感性論に頽落する読みは、すべて失敗作なのです。@BeTakada

タグ:

posted at 01:58:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

カントの時代の術語、悟性と感性は、今の時代でも問題になる一般と個別のことです。そしてカントが克服した問題は、旧来の論理学(形式)では、個別を捉えられない(客観できない)ということです。すべてが一性に回収される言葉遊びが、一般概念であるはずがない、わけです。@BeTakada

タグ:

posted at 02:07:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

カントをニュートン的という読みに対して、ハイデガーが鋭く批判的なのは、旧来の論理学(陳述の仕方)、たとえばユークリッド幾何学は、それ自体は完結しているが、何も意味=超越しないからです。陳述の外の実在を切り捨ててしまう。@BeTakada

タグ:

posted at 02:13:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

旧来の論理学(陳述)は何も意味をなさない。何も超越しない。なぜなら時空が一性・実体的だからで、そうした感性論から超越・脱却する図式論こそが、カントをニュートン的な絶対時空から解き放つ、原則論の主題だ、とハイデガーなら言うのです。@BeTakada

タグ:

posted at 02:14:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

さらに、偶然や必然という様相についても、実在の様相(不在や実在)ではなく、旧来の陳述では、形式が内実を捉えていない不在なので、実在へ超越する論理の可能性や現実性のカテゴリーのことだ、と旧来の読みを全て一蹴してGA41のカント論は閉じているのです。@BeTakada

タグ:

posted at 02:35:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

一言で言えば言葉遊びはやめなさいということです。どうせ感覚に基づく旧来の判断論では、他人の痛みなど不可知のままだ。だったらそういう形式に論理性があると認めること自体、やめてしまえばいい。そういう超越の真性が、問題にされている、ということのようです。@BeTakada

タグ:

posted at 02:36:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

冒頭で、どうも素朴な日本人はイギリス人に騙されやすいといったのも、超越とは一性からの超越であるにも拘らず、イギリス人はカント注解のつもりで、つい一性=形式論理学に遡行してしまい、彼らだけ幽閉されてしまうからです。そこから超越=脱却すればいいだけの話です。@BeTakada

タグ:

posted at 02:36:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

興味深いのは、何故か日本人は超越というと、一性(デカルトの神でもスピノザの神でも)への超越と思いたがるのだが、ハイデガーが言うように、一性が取り零した内実、つまり実在性へと超越する脱却が、そうした本来の超越であり、西欧人はそれを存在忘却していた、というわけです。@BeTakada

タグ:

posted at 02:40:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

このように単純バカ批判なわけです。カントの純粋という術語は、神でも何でも空の表象=語彙が単純にあることです。概念同士が結合すると、別な大層な表層を生じてしまう。そうした未経験の表象を批判しているわけです。@BeTakada

タグ:

posted at 17:26:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

むしろ純粋ではなく単純と邦訳すべきだ。だから、純粋理性批判というと大仰だが、単純バカ批判といえば、誰でも嚥下できるはず。このように概念結合による未経験な単純な表象、つまり一性から目を醒ますようなこと、そういうことを超越と言っていると言っても過言ではないでしょう。@BeTakada

タグ:

posted at 17:28:12

«< 前のページ12のページ >»
@sunamajiriホーム
スポンサーリンク
▲ページの先頭に戻る

タグの編集

あまちゃん うさぎ うさぎのいる暮らし うさぎ好きさんと繋がりたい うさぎのいる生活 うさぎのしっぽ ホーランドロップ Yahooニュース ldnews onisavulo

※タグはスペースで区切ってください

送信中

送信に失敗しました

タグを編集しました