大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年03月31日(金)
@LitoSnowfield これが、ハイデガーとカッシーラーの対決、ダヴォス討論、あるいはフリードマン史観という問題だが、柄谷ならハイデガーの図式論を批判したカッシーラーに図式論を見て、ハイデガーを共同体的、農民的と退けてしまうのだ。脱共同体したいというわけだが、それで宙吊りになるのが、デカルトの霊魂概念。
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posted at 12:51:12
@LitoSnowfield 上に再び引き合いに出した柄谷行人がトラクリ第一部「社会性と単独性」で、ハイデガーの図式論を批判したカッシーラーの構造に、図式論を見て、ハイデガーを共同体的として、クリプケンシュタインの固有名論からカントに超共同体を看取するあたりにも、宿痾の全容が顔を覗かせる。 pic.twitter.com/nJQ4VlG7A7
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posted at 12:35:34
@LitoSnowfield コトバに追い越されると、死という不条理に追いつけない作品が量産される、というのがトートロジーであるという自覚がないことが全てだが、同時にいかに作品がコトバならぬ、コトバが作品であるかということ。こうしたことは、たとえば~
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posted at 12:08:03
@LitoSnowfield 例のオウム事件~エヴァが分水嶺になって、作品という不条理が生成されなくなった日本という話題ね。それは端的に綜合すべきで、 twitter.com/sunamajiri/sta... のように、死に追い越されてしまっているのは、コトバに追い抜かれているからだ、というだけなんだけどね。
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posted at 11:33:48
@sunamajiri たとえば先日の高村さんのインタビュー mainichi.jp/sunday/article... でもあったように小説や文学…それだけではないですが…は言葉の無いところから始まるのに昨今は言葉がある…手垢にまみれてもいる…ところから始めているから危機である手垢にと
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posted at 07:33:40
2017年03月30日(木)
そもそも、諸悪の根源は、「それ」を、私とか自我とかコギトと語彙化してしまったことだが、コトバ化してしまうと、一般性になり、それではなくなってしまう。実は誰もがそれに気づいているから、賢い人ほど言葉を浪費しない。そこが面白い。@LitoSnowfield
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posted at 23:26:49
たとえば日本では、かつて朝までテレビで饒舌だった連中が、未だに、ある殻を破れない。それはネットでの饒舌でも同じで、扇動的になればなるほど、いわば自分ではなくなり、一般化してしまう。そう誰もが気づいてるから、みんなプライバシーと言い始めた。@LitoSnowfield
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posted at 23:22:53
日本語に限らず、「先」という語彙は曲者なのよ。自分より時間的に以前のことなのか、空間的に自分の目先のことなのか、それが曖昧な多義語だから。それで自分より以前からあるコトバに囚われると一般人になってしまう。それでみんな口が重いのよ。ところが饒舌な時代だ。@LitoSnowfield
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posted at 23:10:13
それが分かっているからみんな慎重になり口が重いでしょ? 勘違いしている人は、自分より以前からあるコトバ=語彙に振り回されてしまう。コトバでは一般人になることしかできず、普遍化できない。そんなものは柄谷の「単独性は語り得ない」でも十分な議論だからね。@LitoSnowfield
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posted at 23:09:47
2017年03月29日(水)
アプリオリって単純に、分かった上で喋ること、という話=綜合に対する先後系列のことで、それ以上でも以下でもないわけだからね〜。@LitoSnowfield 偶然に今朝に“分かる分かっていない”問題 (アプリオリ問題)を考えてむ〜む〜唸ってました(*^o^)>あはは
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posted at 22:25:57
だから、ハイデガーはカントの演繹論に、説明を見出すのだ。たとえば、カントは説明に不満足を表明しているだけだ、などという。要は、分かっていることを説明できないで不満だ、ということなのだ。いわゆる説明下手ということなのだが、それを分かっていない、とか認識不足と言ってはならない。
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posted at 13:18:44
人は、書きながら、何か認識を得ることはない。つまり言葉遊びは何も認識させない。そうした概念分析から超越すること。それを綜合というなら、綜合をアプリオリにしてしまうこと。つまり分かった上で述べること。そのことだけが問題だ。
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posted at 13:15:22
たとえば、ショーペンハウアーが、書物の仕方を俗っぽく分類して、予め分かった上で書くこと=説明と、書きながら分かろうとして挫折することを範疇化させたわけだが、一性=同一性=統覚とは、このように予め一貫した認識の上でなされる、説明の妙、鋭さのことなのだ。
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posted at 13:13:49
このようにブレない意識、つまり迷いから解放された意識が、モータリティーだということ。一という数字が実体の一性と、そうではないものとして概念化する際に生じる、不死性というものにとらわれない、そうした迷いのない意識。そのことが彼らには大問題なのだ。
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posted at 13:08:56
何も臆して動揺することのない意識、無限後退すら怖れない一貫した懐疑。これが一性、同一性、統覚、一つの意識だが、それに動揺すると一性は実体化してしまう。彼らが一貫して懐疑しているのは、たかだか有限なデカルトの霊魂概念、つまり実体としての意識なのだが、そこで臆してしまわないこと。
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posted at 13:05:16
ダヴォス討論の写真を見ていると、カッシーラーのほうが生意気に見えるのだが、こうしたハイデガーのぶれない意識、一貫性、統覚というものが、カッシーラーには甚だ生意気に見えたのだろう。www.amazon.co.jp/gp/product/067...
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posted at 13:01:12
これによって、一性の在り処が明確化される。デカルトでは霊魂概念は一性との差異性なのだろう。しかし一性、つまり一つの意識というのは、不可知論とは対照的に、予め一貫してぶれない意識のことだ。それが図式論によって可能になるというのは、おそらく正しい。
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posted at 12:58:49
カッシーラーとハイデガーの対立は、図式論をめぐるものだ。超越論的演繹は、超越論の内実は可能か、という演繹で、論理の内実としての実在である対象への超越、つまり客観はオブジェクトレベルの感性論(時間)ではなく、図式論(メタレベル)の時間による、というような話なのだろう。
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posted at 12:58:12
うちの周りにも、山本義隆のあの文体はへんてこだが、あれは嚥下できる。それに対して、ハイデガーの邦訳だけは、どうしても引っ掛かってしまって、日本語として読めないという、現代文講師がいたのよね。あれは一体何なんだ? つねにそれを解明しようとしているのだが。
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posted at 12:26:10
ハイデガーとカッシーラーのダヴォス討論が、なぜか日本では全共闘で駿台物理学文学の山本義隆と、その他大勢のチャチな論理実証主義的英米分析哲学のように、話題が頽落しているのが、非常に閉塞感ね。たかだか、一性(同一性)の内実=実在という演繹にすぎないものを、幻想しすぎ。
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posted at 12:25:56
駿台物理の山本義隆は読めるがハイデガーは読めないという人がいるのよね。amzn.to/2mOh6oS 「英米墺系の論理実証系の科学哲学がチャチに思えるほど。翻訳者が人文系の哲学の先生だとカッシーラーの思考と種類が違いすぎて、うまくいっていないような気がする」
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posted at 12:03:00
新装版なんかでるのね。改訳もあるの?(^-^)/ 実体概念と関数概念 【新装版】――認識批判の基本的諸問題の研究 エルンスト・カッシーラー (著), 山本 義隆 (翻訳) 2017/4/11発売www.amazon.co.jp/dp/4622086042/...
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posted at 11:56:44
2017年03月28日(火)
哲学は喩え話を駆使するのだ。たとえば時間と因果律を峻別するカントの図式論の喩えが、現実の100円と想像上の100円は、どちらも増減のない同じ数値だという按配なら、今度は想像から現実への飛躍が真価だ、というわけのわからない比喩が出回り、どこから喩え話なのかが、わからなくなる病気。
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posted at 01:09:53