地に足をつけたい
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- 自己紹介 女の園の星 / 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト / Slay the Spire
2011年03月22日(火)
"エンターテインメントとしてのヒーローたちの物語は、むしろ「どうにもならなかった現実」があるからこそ求められる" 当たり前であるが故に鋭い言葉:小田切博の「キャラクターのランドスケープ:ヒーローはいつも間に合わない」tinyurl.com/4po6bfn
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posted at 16:29:02
「時代」(=同時代の消費者たち)と一緒に作品を作りあげていく感覚はあっていいんだと思う / 「自分が面白いと思うこと」をやるべきか?「他人が面白いと思うこと」をやるべきか? - teruyastarはかく語りき htn.to/s7YE6p
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posted at 08:54:52
まあ、勿論このラスボス論になにが強く結びついているか、といえばダークナイトのジョーカーなのである。伊藤計劃の論ずるところの「世界精神型の悪役」の発展型の話でもある。
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posted at 00:58:34
その記述困難に直面しているためではないか、ということ。これについてはある意味、一つ例をとれば「まおゆう」がなぜあのように物語を進め得たのかということにも通じており、すなわち、ラスボスの消えて、なお変容した我々/世界と記述が切断されずにそのまま持続された物語を描いたのが「まおゆう」
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posted at 00:54:34
近年、ラスボスを書きにくくなっているというのは、なんなのか、と考えたときに我々はある種ラスボスに(二重の)偶有性を見出しにくくなってしまっているのではないか、ということを考える。つまり、結論的にラスボスが変容させた我々(を含む世界)がラスボスに打ち勝つことで、どのようになったのか
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posted at 00:51:07
二重の偶有性の起源については、もし不可逆的にそれを求めるなら、この辺りは、「まおゆう」の役割のねじれが面白いと思うんだよねえ。魔王/勇者であることのペルソナから逸脱することではじめて、記述不可能でコミュニケーティブな合理性が図られ、(ゆえに最終的に終着する)物語が導入されるという
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posted at 00:40:34
ラスボスについては、記述された(物語化された)世界に生きる行為の終着点である、という点で言語的であるということ。つまり、ラスボスというのはあくまでも事後承認的に(個人と対照されるべき)世界のディレクティブな存在(or全景を暴露する存在)ではないかという疑問あたりから。
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posted at 00:30:48
今、ちょいちょいラスボス論を広げるにあたって、ルーマンの入門書を読んでる。ラスボス論については論点を整理しているところで、ヒーローと記述される存在としてのアバター(≒ペルソナ)、個人の相互依存(と偶有性)や選択不可能性ゆえに生じる世界(と分析/物語化)についてなど。
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posted at 00:24:55