いろは
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2012年05月27日(日)
(*・_・)o彡°悪左府!(*・_・)o彡°悪左府!( *・_・)o彡°悪左府!( *・_・)o彡°悪左府!(*・_・)o彡°(*・_・)o彡°悪左府!…(_*・_・)_…休憩…(*・_・)o彡°悪左府!( *・_・)o彡°悪左府!( *・_・)o彡°悪左府!
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posted at 20:08:16
とかく夫は、沈着冷静、血が冷えていると噂されることもありましたが・・・子を幼くして亡くした私を慰める為に、心を尽くしてくれる、そういった面もある人でした・・・。
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posted at 18:42:58
盛林寺は元々、一色氏の家臣の上宮津城主・小倉播磨守宮津大久保に開創したもので、一色氏滅亡後は細川が庇護しておりました・・・。なので、誘殺された娘婿殿の位牌もございます・・・。
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posted at 18:37:58
他にも、小栗栖で討たれた明智様のみしるしが宮津の玉
殿に送られ、盛林寺に葬ったという伝承があり、お寺には位牌が、その首塚といわれる供養塔は盛林寺の裏山にあります・・・。
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posted at 18:25:28
像の賛詞を頼んだのは英甫永雄(えいほえいゆう)様。後に細川とゆかりの深い南禅寺や建仁寺の住持となられました。夫の姉の子、つまり甥で、母君様は若狭武田氏に嫁いだ宮川様。永雄様は連歌や和歌、特に狂歌がお好きで、近代狂歌の祖と呼ばれています。
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posted at 18:18:07
でも翌年の8月、この子ははかなく亡くなってしまいます・・・。深く悲しむ私の為に、夫は生前から、少し成長した姿を描かせました。それが『即安梅心童子像』。京都宮津市の盛林寺にあります。
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posted at 18:05:56
その中の一人、菊童は天正9年に生まれた男児でした。この時、私は三十半ば、夫も四十半ばでしたから、遅く出来たこの子を大変可愛がりました。本当にとてもとても可愛くて・・・。
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posted at 17:57:14
∥・。・)<私、子供は八人とも十人とも言われているのですが・・・。何人いても子供は可愛いもの。細川家はご存じの通り、ちょっっっとだけ(強調)時世柄、家族仲は微妙であったけれど・・・でも、全員、養子も含め、大事な大事な子供達です・・・。
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posted at 17:41:42