jabrafcu
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2011年05月27日(金)

そして考えてみれば、生きることも勉強することも、本質的にはその活動自体が大切なのであって、何かの役に立つから重要とか、逆に何の役にも立たないからこそ重要(この種のシニシズムは単に前者が倒錯しているだけ)なのではない。
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posted at 01:23:36

それは、本当にただ行くこと、その場に身を置くことが重要なのであって、それによって何か特別なことが「経験」できるから重要なのではない。
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posted at 01:17:36

自分に影響を与えた20世紀思想家の多くはユダヤ系だった。ホロコースト関係の本もけっこう読んできたが、だからといって、たまたまクラクフに来たからアウシュヴィッツに行く必要は全くなかったし、行ってどうなるものでもない。正直行きたくない気持ちもあった。だが、やはり行くことは重要だった。
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posted at 01:14:34

そんなこと言ったって、ではどうしたらいいんですか?と人は聞く。どんな認識や行為が、世界を良くするために効果があるのか?と。でも、もしかしたらこの「効果」という考え方が足かせになっているのかもしれない。それによって世界は何一つ良くならなくても、それでも従うべき認識や行為は存在する。
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posted at 01:09:46

世界の悲惨事を好んで語りたがる人々は、すぐに「平和ボケの日本では想像できないでしょうが」などと言う。もしアドルノが聞いたら、「君の言う『平和ボケの日本』などというものがいったいどこにあるのか?この生の悲惨が君には見えないのか?」と問うたことであろう。
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posted at 01:00:43

アドルノが批判したのは、アウシュヴィッツを「想像を絶する惨劇」として美的にexploitするようなあらゆる「詩」(=アート)のことである。それらはすべて「断絶」を前提している。人を恐怖させる舞台を作り出そうとしている。そうではない、私たちの生と連続しているのだ、とアドルノは言う。
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posted at 00:56:52

アドルノは正確には「アウシュヴィッツ後、詩を書くのは野蛮である」と言ったのだ。「人は文明に伴う野蛮さから逃れることはできない」というのがこの文の重点である。つまり断絶ではなく、連続性の方が重要なのだ。アウシュヴィッツは文明と反対の野蛮ではなくむしろ文明の極端な徹底化だということ。
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posted at 00:50:11

"...nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch."とアドルノは書いた。よく「アウシュヴィッツ後、詩は不可能だ」という意味で引用される。つまり幸福な時代は過ぎ去った、その断絶の徴としてのアウシュヴィッツとして。
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posted at 00:41:13