永田淳一
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2013年03月02日(土)
(32)主人が来札しても、娘は部活があり土日ともに不在だったり、息子も友達と遊ぶ約束をしてきたりで、家族4人がそろうことはほとんどなかった。主人はそれでも「仕方ないよ」と言って文句を言ったりはしなかったが、内心、寂しいのかなと思った。私も、何を買うにも必ず4つ揃えて買うようにした
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posted at 23:55:58
(31)主人は月に1回は来札するようにしてくれていたが、時間がたつにつれて札幌暮らしに慣れて来てる私と子どもたちを見ると、ホッとすると同時にどこか寂しく感じる部分もあったようだった。団地の部屋はゆっくりくつろげる自宅のようなスペースもなく、なんとなくいつも落ち着かないそぶりだった
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posted at 23:50:59
(30)子どもたちはまったく問題なく学校にも友達にも馴染んでいた。何となく自分だけが福島にいた時の自分とは違ってしまったようで、居場所が無いように感じていた。ずっとしてきた仕事を手放してきたからだろうとはわかっていたが、また同じことが簡単に出来るとも思えなくて身動きがとれずにいた
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posted at 22:56:35
(29)自分が福島で見たこと、経験したこと、感じたことを話しても、いまさらそんな、とか、知ってるよ、とか、そんな反応なのかもしれないと思っていたが、いざ意を決して話してみると、知らなかった、初めて聞いた、そんなに大変だったのかと言われた。伝えないと伝わらないと気がついた。
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posted at 21:57:45
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(28)自ら声を上げることにずっと恐怖を感じていたが、話すことは自分自身を癒すことでもある気がしてきていた。ラジオやUstのインタビュー、講演会などに呼ばれた時は、出来るだけお受けして話そうと決めた。でも、それをあまりよく思わない人がいるということも知り、複雑な心境で悩んでいた。
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posted at 21:11:03
(27)我が家のADR担当はSAFLANの弁護士さん。最初に札幌まで足を運んでくれた時、お昼を挟んで5時間くらい、私の話をひたすら聞き続け、途中、息子がお別れ会で号泣している写真を見て一緒に涙し、「やりましょう」と言って下さった。聞いてもらえたことで心が軽くなったのを感じた。
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posted at 21:02:14
(26)ちょうどその頃、東電にたいして申し立てをしませんか、という声がかかった。もちろん、無料ではない。通常と比べたら格安なのは間違いないが、ただでさえ財政難なのに、と悩んだ。が、家族で相談し、結果がどう出ようが第一陣で声を上げることが大事なのでは、と思い、ADRがスタートした。
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posted at 20:56:07
(25)同時に、ずっと一緒にいて子育てを手伝ってくれていた両親のありがたみをあらためて感じていた。孫が生まれてからずっとそばで支えて来てくれた父と母。遠くになんか行かせたくなかっただろうな。離れたくなかっただろうな。でも、声を聞くと寂しくなるからと、あまり電話をしてこなかった。
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posted at 20:51:28
(24)でも、高熱で身動きとれなかった時、布団の中からツイッターに「発熱なう」と書きこんだら、近所のママさんがパンを差し入れてくれたり、カレーを作って炊きたてのご飯と一緒に持って来てくれた人もいて、感激して泣いた。もっと外に目を向けて人と交わらなくちゃいけないな、と痛感した。
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posted at 20:46:05
(23)こんな事ではいけない、と、子どもたちの心配がなくなった9月半ばから2カ月、バイトに出た。が、仕事に慣れてきた矢先、高熱を出して倒れたり、その後もなかなか回復せず、休みがちになってしまったりして、自分の、働きたい気持ちと、心労やストレスからくる体の不調が、かみ合わなかった。
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posted at 20:13:47
(22)団地には、同じ母子避難の方々も多かったが、みんな、うちより小さな手がかかるお子さんを抱えながら、活発にどんどん外へ出て行く姿を見ると、もう大きい子ども二人なのに、見知らぬ土地でなかなか行動範囲が広がらない自分が情けなくて、落ち込む日々だった。
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posted at 20:04:02
(21)自分がいかに主人に頼って生活していたのかを痛感させられる日々だった。生活力の無さに落ちこみ、こんな事で子どもたち二人をちゃんとみて行けるのか、と不安でいっぱいだった。8月末に子どもたちの2学期が始まり、日中家に1人になると、余計に心細さが募った。誰とも話さない日もあった。
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posted at 19:56:57
⑳情けない話だが、私は電化製品などにからきし弱い。もちろん、コードの配線など出来るわけも無い。PCの設定だって何だって、まったくできない(使えるが)。主人が帰ってからはそういったことが全部のしかかってきて、しばらく半泣きでやっていた。電球の交換も、実はほとんどやったことが無かった
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posted at 19:31:53
おしどりマコ@脱被ばく。知りたがりの怒り @makomelo
今日からほぼ復活です!心配してくださった方々ありがとう存じます!上杉さんのお母さまが果物を、龍作さんの奥さまがポトフとおかゆを届けてくださいました!偶然たくさんのリンゴジュースもお送り頂き、愛をたくさん感じました、本当にありがとう存じました!!
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posted at 17:41:45
免震棟の外にあるスピーカーから流れていたクラシックが頭の中から離れないw Pachelbel - Canon In D Major. Best version. youtu.be/NlprozGcs80
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posted at 16:34:35
政治家:今日ほど政治家が劣化したことはないのでないか。選挙にとおるためなら何でも言ってやる。原発反対。TPP反対。増税反対。受かったら、俺しらねー。上の人が決めるんだし、私にゃ従うしかないんだし。上は上で首相の座につけるなら国をうろうとなんだろうと、米国追随に徹します。
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posted at 16:09:14
バンダジェフスキー博士を引きずり下ろしたい人は、推進側ばかりでない。反原発サイドも大勢いる。医師も、物理学者も、一般人も。この問題に携わる人で、思いもかけない人が実は彼を狙う。僕は彼を万能とは全く思わないし、問題点も分かる。しかし、引きずりおろそうとする人達の本質は嫉妬。卑しい。
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posted at 05:01:11
2013年03月01日(金)
広域の放射性物質汚染除去・対策についても、一つの県を対象とした地形の縮小モデル(ジオラマと言ってもよい)をつくり汚染サイクル等の検証や防護対策を検討しないと、効果的な対策を集団思考ができない。学校の教室一つくらいのスペースの大きな模型になるがへんな開発をやるよりよほど成果がでる。
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posted at 20:03:20
3.11から3年めにもうすぐなる。フクイチの収束・除染・廃炉等の開発には、実機モデルと縮小モデル(3D-CAD等のコンピュータグラフィックではない)で研究しないと駄目だと私は3.11から言うてきた。立体的視覚と手触りで検討することだ。未だに机上の空論だけ、故に何もできない。
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posted at 19:53:14
東京ディズニーリゾートで初の同性ウェディング。感慨深いっ。 ほんとにおめでとうございます! http:// bit.ly/VS0IOF pic.twitter.com/h1FM4yln3V
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posted at 18:27:33
おしどりマコ@脱被ばく。知りたがりの怒り @makomelo
昨日からケンパルと私が同時突然発熱!ケンパルは38度前後、私は39度前後。今朝ケンパルがトイレに行こうとして血圧低下で倒れこんで汗びっしょり。「動きたくない、毛布と布団かけてそのままにしといて…」と言うので、そうして私はお布団に。老老介護ってこういうのかしら、シャレになんないな…
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posted at 17:04:40
蔵書や何百ものスクラップブック、娘たちへの手紙、瀬長さんへ届いた手紙なども展示。また、暑い夏を肌着にステテコ一枚で座った書斎も再現されている。写真は、ジョリオ・キューリー平和賞(1969)と亀次郎人形。場所は、那覇市若狭2-21-5 pic.twitter.com/e4AZ0EL8vj
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posted at 16:41:23
⑲夏休み中、部活に明け暮れた娘だったが、息子は同じ福島からの友達とよく遊んでいて、そのまま2学期が始まり、クラスは別れたけど、他にも避難してきてる転校生が多くいて、先生方の気遣いも十分なくらいいただいて、順調に新しい学校や先生友達に慣れて行った。帰りたいとは言わなかった。
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posted at 16:22:35
2年の獄中生活で始めた獄中日記も展示。瀬長カメジローはオシャレな白い背広と白い靴で1956年4月9日数百名の市民出迎えの中を出獄。その時の背広と靴も展示。オシャレな鞄と懐中時計も。刑務所の隣りの自宅兼雑貨屋は煙草を一本売りしたという。 pic.twitter.com/JWWMzsLiw2
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posted at 16:16:52
⑱さて、一方、避難当時小6だった息子。前の避難手記にも書いたが、私が知らないところで、息子は転校したくないと号泣していた。あと半年で卒業、その気持ちも当然だと思うと、私も泣けてきた。でも札幌に来て同じ団地に福島から来た同じ学年の男の子がいるとわかると元気になり、笑顔も増えた。
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posted at 16:13:51
厳しい米軍統治下の弾圧の中で不屈の魂で米軍の不当性を暴き、民主主義と沖縄民衆のために正義を主張して1954年の人民党弾圧事件で立法院議員のまま逮捕・投獄、56年に出所、同年那覇市長に当選。一年後米軍布令で市長の座から追放、一切の被選挙を剥奪された。その後、衆院議員連続7期。
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posted at 16:12:50
『不屈館-瀬長亀次郎と民衆資料』開館式。古堅実吉さんの挨拶は、家族思いの優しい父親、大衆にわかりやすく語りかけるカメさんが、国際法違反の不当な米軍支配に敢然と立ち向かう沖縄人民党を率いた不屈の政治家・瀬長カメジローだったことを静かにしっかりと伝えていた。
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posted at 16:11:10
北関東・汚染エリア。医療関係者で「放射能」のことが表向き口に出せない感覚。そのなかで、やれる対応をしている思いがけない話を聞く。筋金入りのベテランの医者の闘い方は、なかなか面白いところがある。その人は、東の生協は、生産者本位で信用していない。もっぱらコストコでお買い物。
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posted at 15:51:21
⑰夏休み中の部活に参加できたお陰で、娘は2学期初日も「すでに知った顔」だらけの新しいクラスの中へ自然に入ることが出来た。転校生を紹介します、と言われて入った時も、みんなが手を振ってくれてておかしかったよ、と、笑顔で帰宅した。1つの山を越えたな、と思った。
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posted at 15:19:04
JCO事故の時(?)三菱の社員などはもう避難していた それを聞いて村民も避難させた 中性子線が飛んでるから屋内避難で済むわけない 先に逃げるとは関東軍のようだ 村上村長 ( #iwakamiyasumi live at ustre.am/eOVh)
タグ: iwakamiyasumi
posted at 14:48:24
⑯芸は身を助く、とはよく言ったものだと思った。小4からバドを始めた娘、あっという間に部活動に馴染み、数日後には、新しい仲間たちとプールへ出かけて行った。ただ、心配だったのは、経験者が入部することで疎ましく思われたりしないか、ということだったが、みんな大歓迎で受け入れてくれた。
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posted at 13:33:39
⑮「知らない子ばかりの部活なんてやだな」という娘を半ば引っ張るように連れて行った初日。私から離れてみんながいる方へ歩いて行った娘は、あっという間に取り囲まれ、わぁーっと楽しそうな声が上がった。顧問の先生はこちらを見てうなづいていた。私は、安心して半泣きになりながら、帰宅した。
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posted at 13:26:51
⑭札幌到着から数日後、転入先の中学へご挨拶。部活動はバド部へ、と言った娘に教頭先生が「なら、早い方がいい。転入は2学期からだけど、部活だけ夏休みから参加しなさい。顧問を呼びます」と言ってその場にすぐ顧問の先生2名が来てくださった。その三日後、娘はバド部の仲間入りをすることに。
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posted at 13:23:36
⑬避難してきてからの子どもたち。まずは娘の様子から。中2、女子。難しい年頃だった。前の学校では勉強も部活も本当に頑張っていた。友達もたくさんいて、将来の夢もあった。でも娘は札幌行きに大賛成だった。「どこにいても元気ならまた会える」いつも、何度も、こう言っていた。前向きだった。
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posted at 13:20:27
⑫札幌に着いて6日後、主人は1人で福島へ戻った。必要最低限のものが置かれた部屋に、私と子どもたち二人になった。寂しくて泣けてくるかと思ったら、泣く余裕もなかった。親戚も知人も友達もいないここに、子どもたちと私ひとりなんだ、と思ったら、緊張と恐怖で体が硬くなった。怖かった。
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posted at 13:13:27
すいません、、、ちょっとだめだ。 ひとやすみする。 まだ進行形過ぎて。うまく言葉が見つからない。 何なんだよ、もうすぐ2年なのに。なにもよくなってないじゃないか。
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posted at 11:46:20
⑪その時、思い出したのは、福島の自宅を出てくる時に主人が言った一言。「あぁ、今度ここに戻るときは、1人か」 この言葉が頭の中をぐるぐるまわった。札幌に着いてから忙しすぎて、忘れていたけど、主人はあと三日でまたあの場所へ帰るんだ。ずっと4人で暮らしていた自宅に、1人で戻るんだ、と。
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posted at 11:43:28
⑩テーブルを買おう、という主人に、「いや、無くても食事くらい食べられるから、大丈夫」と、とっくに予算を大幅オーバーしてることが気になって、私は答えた。「妻子だけで残して行くのに、もっとちゃんとしてあげればよかった、とか思いながら帰るのはいやだから、買う」と言われ、何も言えなかった
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posted at 11:39:18
⑨到着から3日間、近くのホテルに北海道が部屋をとってくれて(感謝!)、そこに寝泊まりしながら、団地の部屋をどうにか暮らせる状態にまでしなくてはならなかった。寝具、食器、その他、生活用品ってこんなに必要なんだ、、、、と思いながら、3日間走り回ってどうにか形になって来た。
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posted at 11:33:43
⑧鍵を受け取り、部屋に入った。ストーブと、電気と、ガス台がある以外、何もないがらーんとした部屋。避難前と同じ生活を望んでいたわけではなかったけど、やはりどうしても自分の家が恋しくなった。団地暮らしはもう15年ぶりだった。ここで生活するのか、子どもたちと私だけで。一気に心細くなった
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posted at 11:11:17
⑦私が、団地に到着、とツイッターでつぶやいていたのを見た先住避難者の方が、お部屋から出て会いに来てくれたのも、嬉しかった!あぁ、私はこの人たちとこの数カ月の辛い時間をずっとネットで支え合ってきたんだなぁーとあらためて思った。まだ、気持ちが高ぶっていてあれこれ考える余裕がなかった。
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posted at 11:05:17
⑥雇用促進住宅は、思っていたより立派な建物で、遠くからもすぐにわかる高層の団地が4棟並んで建っていた。車から降りた私達に気づいて、すぐに駆け寄って来てくれたのが、そう、宍戸さんだった。ツイッターで、もう数カ月やり取りしていた方と、リアルで会えた。みんながいるんだ、とほっとした。
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posted at 10:55:37
⑤とりあえずまっすぐ雇用促進住宅へと向かった。高速道路を走りながら見る空の色も周りの木々も、地元のそれらとかわりないのに、SAの名前が、読めなくて、「あ、北海道だね」なんて苦笑いしたりした。ちなみにそのSAは「輪厚」。主人は「りんこう、だろ」と。大ハズレ。「わっつ」だった
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posted at 10:25:31
④同じ日本でも、こんなに普通なんだ、、、と、思わず足下の道路にひび割れが無く、崩れた壁や傾いた家が無い風景をじーっと観察してしまった。そんな私の様子など気にすることも無く、子どもたちは、もう大きいくせに「北海道、来たねーーー!」なんて言いながら、笑顔がいっぱいだった。ほっとした。
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posted at 10:19:38
②長い船旅でぐったりの私を尻目に子どもたちは笑顔。でもそれは救いだった。海を越えてくることで、なんだかすごく遠くに来ちゃったような気がしていたけど、到着してみたら、当然だけどそこは日本だった。でも、久しぶりに家族みんなで思い切り深呼吸をした。ここで暮らすのか、と思いながら。
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posted at 10:02:47
①札幌での生活が始まったのは2011年7月22日。生まれて初めての北海道。旅行でさえ来たことが無かった。ずっと憧れていた場所に、まさか放射能から逃れるため避難してくることになるとは、思ってもいなかった。心配も不安も山ほどあったはずなのに、到着した時はそれを感じる余裕さえなかった。
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posted at 10:00:16
今日はちょっとずつ避難後のことをつぶやいて行きます。前みたいに集中連続投稿できそうも無いので、番号ふります。おヒマな方、たまたま見つけちゃった方、気が向いたら読んでやって下さい。
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posted at 09:59:06
まだ観ていないかたへ。1990年にNHKで報道されたチェルノブイリ原発事故の現実「放射能?大丈夫じゃないの?」という知り合いがいたら見せて下さい。日本の現実がわかります『チェルノブイリ事故から4年。放射能汚染地帯で何が起きているのか(goo.gl/y41Ft)
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posted at 00:05:28