大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月22日(金)
攝津氏の吉本隆明の原生的疎外(知による疎外)が、非知→死の欲動なら、この知ってる人間が、知らない人間に、指導することが不可能で、へたすりゃ殺される、と思えてしまう、分からない奴に分かる奴が骨までしゃぶられる。そういうのは私は嫌だww(^-^)/
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posted at 05:52:10
それを國分的スピノザは、実体によって生じる懐疑者が自動的に学ぶまで、指導を放棄してしまうのだが、たぶん必要なのは、知らないフリ、分からないフリ、が得策ということだろうな。しかし、バカのフリは真逆。馬鹿正直に哲学の話をするのがバカなのだろうが、それだと逆効果ww
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posted at 05:56:18
t.co/uXROZnB2 摂津氏の日本のポストモダン分析は、主体性を奪う詐術を明らかにする試みに見えましたが、中川郁代さんとの対話では、原発への無関心や、無力な貧困層という、弱者の主体性が被支配となる、詐術だったのではないか、と発展しました。
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posted at 06:18:41
t.co/uXROZnB2 日本で今何が現象しているのか、ということを考えるときに、日本的ポストモダン(バブル時代に流行った高度消費理論、言語哲学など)が、結果的に、いかにその後の日本に、主体性を奪われた弱者を生み出したのか、という分析をしていたことになるようです。
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posted at 06:22:17
哲学の概念で不明になるようでしたら、普通に西欧哲学の解説書をお読みになるのがいいと思います。それをいきなり現代思想から始めたら頭がグラグラになるのは無理からぬことです。(主体性どころか)脈絡を奪われるのですから、私はそれで何人も発病した人を知っています。@nakagawasun
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posted at 07:48:47
國分さんのスピノザの方法をお読みになっているんですよね? それはスピノザが実体という名目を、実在性に(定理8までで)転換して、あとは神に触れないでも人のことを話せるようになる(合理性)、つまり西欧哲学における概念の解決だ、という言説でした。@nakagawasun は~ぃ。
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posted at 07:54:34
2部の『デカルトの哲学原理』が、いかに3部の『エチカ』の前史になって同定理8までを可能にしたのか、そしてそれが分かるのが一部の『知性改善論』の破綻だ、という立論だよ。スピノザの『デカルトの哲学原理』が今まで軽視されてたために、エチカの神も誤読されていた。@nakagawasun
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posted at 08:26:18
ちなみにスピノザは、エチカ以外は、岩波文庫も全部廃刊されてる。普通に買えない。全集もないし。それだけエチカだけが完成されてるからなんだろうけど、エチカ単体だと実はその後の西欧近代の誤読史に直結したのかもしれない。國分さんのインパクトはそんな感じ。@nakagawasun
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posted at 08:31:06
なぜ唯物論(言葉が物の原因ではないこと)は、デカルト以降固有なのかを、攝津氏のt.co/SpVsc3QJ から考えながら、デカルト省察の冒頭要約部。観念の明澄さとは何だったのだろう? t.co/GsKxSO3E
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posted at 16:03:58
t.co/7XctLipm もちろんデカルトに唯物論があると思えないし、デカルト以前に無神論や唯物論、つまり懐疑論は寧ろ喧しくあったとは思うのだが、なぜそれがデカルト以降に前景化したのだろう? それほど攝津-廣松のいう17世紀の明澄説は詐術的なのかしら?
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posted at 16:13:24
國分氏によるとスピノザは、言葉(観念でもよい)が物を指示する真偽の基準=標識を無限懐疑となる実在性の量として斥けて、論理的順序にとっては実在する実体が唯一であるという観念を定理8までで証明することで、デカルトの神を度外視するようなのだが。t.co/SpVsc3QJ
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posted at 16:30:56