大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年08月30日(木)
心という新たな名前を分節するために、消去主義(神の信条を含む心はない)が生まれただけなのに、自我を分からないものとして、他人にも自我がない、気持ちが分からないと踏まえると、弁証法は自我じゃなく、自分の消去を生むだけに見えるなー。
t.co/YLC0LA83
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posted at 09:03:16
デカルトは、他人と分かり合うためには、神という信条が要請される、それが自我だといったわけだが、それを誤読すると、他人が分からなくなるだけでなく、自分という意識、つまり存在が希薄になるだけなんじゃないの? 心という名前が消去を生んだだけだよ。そんな矮小な言葉でいちいち名指すな。
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posted at 09:11:15
デカルトが要請した神がみえてないから、自分が自我性の希薄な存在に思え、消去されそうだから、いろいろと読んで啓蒙されることで、自我を構成しようなんて素朴な考えは、実学的すぎていかんよー。自我だけだよ構成できないのは。構成する矛先を誤って消去されるのが自我だよ。
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posted at 09:32:42
ビルディングスロマンス(自我獲得の成長物語)は物語性ではないというのが、文学だからなー。だれもAからBに成長するわけではない。そんなことをいうから、存在が抹消されちゃうだけ。
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posted at 09:37:29
自我人が科学できるだけなのに、自我を獲得する成長が科学だという無我人が科学すると、たいした発見とかないばかりか、何かとんでもなく社会に負担だけ生むようになるだけで、しかもそんなものは誰からも相手にされないから、見捨てられて、しみったれた無我人に退行するだけだと思う。(^-^)/
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posted at 09:55:17
心という機能は存在するのかといわれてもねー。そんなもん、神を信じて自我命題になるか、無我になるか、という弁証法としてしか存在できない言葉というだけで。そんなもの過大に期待しているのは、実学を信仰のようにしてる日本人ぐらいなんじゃないかと。そんなもん国民性にされても困るんだが。
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posted at 10:22:19
いい加減、今より凄い心をつくれるはずだ、心は進化する、なんて恥ずかしいこと考えないでほしいのよ。心が機能なのかという弁証法は、そういう期待から過大評価されてるように見えてならない。
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posted at 10:26:51
そうそう、物理のような心理といった瞬間に、あれ自分どこにいるの?って存在がやばくなって、自殺の動機ばかり作ったりするww (^-^)/ @LitoSnowfield 「幸福」とか「幸せ」という言葉が不幸を生み出してしまっているような
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posted at 10:38:23
言葉は連合ではなく分節だからねー。全部神とまとめときゃ、いちいち神といわなくてすむというだけの代物。@LitoSnowfield 社会学者さんのフィールドワークのご本で(・o・)> とある狩猟民族には「幸福」に当たる言葉が無い…という文章を読んでビックリしたことがありました
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posted at 10:44:09
physicsを物理、psychologyを心理、と並列的な漢字に和訳するから、日本人だけ心理が自我命題だと錯覚しちゃうのかしら。あの自殺せんばかりの過剰ぶりは和訳が原因なのよね。日本語では弁証法や存在命題ほど基本語より新造語になるのに、西欧語だと基本語彙だ、というのと似ている。
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posted at 10:49:26
t.co/iTYGAPkj RT @sunamajiri: しかしこの芦田先生と、渡邊先生の議論は、今年初め、心は機械的な機能でフロイトはその流れの先駆という@bezoku インコたんとの議論ににてるねー。要するに、心的何とかから、フロイトがデカルトの神を斥ける…
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posted at 10:51:48
t.co/6piRI4Mf RT @sunamajiri: しかしこの芦田先生と、渡邊先生の議論は、今年初め、心は機械的な機能でフロイトはその流れの先駆という@bezoku インコたんとの、議論ににてるねー。要するに、心的何とかから、フロイトがデカルト…
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posted at 11:01:04
t.co/t3wVnt9s RT @sunamajiri: しかしこの芦田先生と、渡邊先生の議論は、今年初め、心は機械的な機能でフロイトはその流れの先駆という@bezoku インコたんとの、議論ににてるねー。要するに、心的何とかから、フロイトがデカルトの神…
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posted at 11:03:41
正直、私の関心は一つ。たとえばアメリカの国語の教科書には現象学ジャーゴンは希薄なのに、なぜ日本の国語教科書は現象学が濃厚にならなければならなかったのか、という点。
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posted at 11:08:59
もちろんそれは前にも言ったように、前柄谷的な文芸評論から、柄谷さん以降になることで、評論が文芸を矛先にせず、日本の特異性ばかりを主題にするようになっちゃった、ということなのだろう。もちろんこれは日本近代文学自体がしょぼかったということだが。
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posted at 11:11:59
作家論でなくなったときから、現象学的な評論が国語教科書の主役になってしまったのだが、この評論の矛先の変更が、文芸自体のしょぼさからきているというのが、気になってしょうがない。
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posted at 11:14:54
さらには国語を客観テストしなければならないという点から、どうしてもその方法は、この言葉はあれをどこまで含むのか、というテストになるのだが、そのためには評論というジャンルで演習させ、小説言語もそれでテストせざるを得ない、という制度上の問題もあったのだろう。
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posted at 11:23:10
このある概念がどれをどこまで含むのか、という含有量の問題というのは、命題的な読解でのみ改題できるのだが、ご存知のように弁証法(現象学ジャーゴン)というのは、幾何学的ではない。
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posted at 11:27:14
おそらく(心身とかの)二元論も、幾何学的な命題(どの言葉が何をどこまで含むのかという含有量)の道具に過ぎないので、信憑性や明証性、つまり自分という意識が実在するという実感の問題にはならない。しかし、これを正解させるのが国語教育というのは、アメリカとかでは聞かないし、なさそうだ。
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posted at 11:37:01