大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年09月30日(日)
高2の男子が一ヵ月半で国語の偏差値20が60だかにワープして喜んでいたけれど、国語が一番簡単なテストだからというのと、私は神だ神だとしか言っていないというのが笑える。ただし現代文で、神VS人は、生産から労働、つまり経済の話がすぐに出てくるね。経済では人=信憑って個人ではないからね
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posted at 01:40:34
センター過去問に、ヴェニスの商人は安く仕入れて高く売りヨーロッパを貧乏にしたが、産業時代は労働が利鞘の主体となった、しかしそうした近代もじつは実質賃金率(安い給料)と労働生産性の差額が利鞘で、人間は一度たりとも経済の主体になったことがない、という主体論がでてくる。
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posted at 01:40:48
その経済にとっての主体は人間ではなく、実は差額であり、農村部と都市部の差額がなくなった先進国は経済を喪失したが、そのために差異の創出としての情報産業が生まれた、という話で、マルクスの物神化が躓きの石で出てきてなかなか憎い。
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posted at 01:42:20
子供たちは物神化って?ときいてくる。もちろんフェチのことだが、価値(値段)は売買契約の結果にしかないが、売買成立前に価値があるという錯覚はフェチと文中にある。これはお金だけは物々交換ではなく信用と錯覚するのが新たな宗教の形態だからだよというと、大抵の子供たちは理解するみたいね。
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posted at 01:47:40
たしかに、近代における自由とは、神や自然からの解法のことだが、自由になった人とは、別に個人ではない。信憑や信用というのは個人ではなく、関係性になったときにしかないからだ。たぶん個人では神と大差がない。労働が経済の主体ではない、というのは実は近代以降最も重要な命題だろう。
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posted at 01:51:38