大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年10月21日(日)
Hegel Japan ヘーゲル・ヤパン @GWF_Hegel_Japan
比較においては、現存している区別を同一へ還元することが重要である。だから、数学こそこの目的を最も完全に遂行する学問と言わねばならない。なぜなら、量的な区別というものは全く外的な区別にすぎないからである。数学では三角形と四角形の質的差異を捨象して大きさが等しいという。
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posted at 14:03:16
この小論t.co/8MHfkbSe の子理系だから今まで現代文勉強したことがなかったが学校では必修で先生が近代近代と厳しいというので、小論も近代によって孤独になったまでは良く書けてたわね、それなら人は物を産まない、ということだけ定理として覚えなさいという授業をした。
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posted at 22:16:40
人は物を産まない、食べ物は自然から産まれる。それに感謝する宗教が、神とは何か?という疑いになったのに対して、近代に人が主体になれたのは、神を疑いの対象とするのを辞めて、自然を研究の対象とできたからだけど、それを誤解すると人が物を産むと錯覚して近代の様々な負の問題となったのよ。
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posted at 22:25:04
人が食べ物を産んだら共食い。しかし近代は人が物の産み手という錯覚となった。生産が労働によって産業になったのは、神を疑わないで人の主体性が確定したから。しかし、そうなれなかった無神論者は人が物の産み手と錯覚し、計画経済に陥ったのよ。何が間違いか分かる?というワンポント授業だった。
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posted at 22:35:22
なぜ高校国語が近代の教養に近くなっているかというと、人が主体性を持つということの正確な意味を理解するのが国語だから。人の産めない物を産むものを疑わないのが本当の主体性なのよ、と数分で説明したら、合点を形成(分かるを分かる)できたようだった。がんばって(^-^)/
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posted at 22:41:59
うん、デカルトの自我のためには神(を疑わなうのをやめる)が要請される、という近代思想の原点だよー。現代文つまり日本の近代化させる国語は《神要請》だよー(^-^)/ @Tomohokubo QT: 以前から仰っていた近代は神を疑わないというのはこういうことだったんですね。
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posted at 23:42:02
メルロ現象学の心理学批判も、人という主体を人以外の器官や機能に対象化することへの警鐘だしね(^-^)/ @sunamajiri QT: t.co/7F0wsPnK
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posted at 23:46:32