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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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Favolog ホーム » @sunamajiri » 2014年04月11日
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2014年04月11日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

でしょ? ひとつ間違うと正反対になるでしょそれ。これで事物とか物自体が実体だとか言い出すのだが、そもそもデカルトが延長を実体だといったことになるので、何も変わっていないのです。ハイデガーはそれを批判することを、まず存在了解と呼ぼうとしてそうですね。@LitoSnowfield

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posted at 00:00:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

ギリギリセーフだけどね。それだけハイデガーは日本語を動揺させるのだろうね。一歩間違えば(読み手が)非実体化するぞww (^-^)/ @LitoSnowfield 複数の訳出で相違…反転…があるというのは興味深いですね〜

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posted at 00:36:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

仏教国だからなのか知らんが、そんなことないコギトはカントが理性にしたじゃないか、と別なものにみえてしまうのか、こういう話題に反応してこないでしょ? だから日本の思想なんて英語で書かれても、ほとんど接点がない。w @LitoSnowfield しょぎょうむじょ〜 <読者が非実体化

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posted at 04:20:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

仏教国ならフォアゾクラティカー~キリスト教の厄介な問題は素通りできるのかね。デカルトはコギト(とその延長の自然)を、カントは物自体を、「実体」という神を表す術語で呼称することを近代的理性と仮定しただけだが、そうした存在忘却は理性でも何でもないからね。@LitoSnowfield

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posted at 18:04:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

古神道なんて到来文化の結晶twitter.com/sunamajiri/sta... らしいからね。しかしそうした系譜の切断によって、近代的理性の肝心な命題(コギトを神と同様の実体とするのは存在忘却なのか)を素通りできるはずがない。@LitoSnowfield 仏教もそうですが神道からの影響

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posted at 18:15:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

ハイデガーの存在忘却という問題設定が面白いのは、デカルトがコギトとその延長である自然を、神と同義の実体と見做し、そうした認識を鈍らせる感覚(欺く神)の批判が、カントに至って近代的理性のように命題化されてしまった、という誤謬を批判することだからね。@LitoSnowfield

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posted at 18:23:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

ところが、この新しい経典、近代的理性という仮定を存在忘却と総括し批判するハイデガーを、しっかりと受容できた形跡がないのが、そうした日本語訳文の動揺なのだ。自然を実体=神と名付けることである、感覚批判や感性が近代的理性であるはずがないからね。@LitoSnowfield

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posted at 18:37:09

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

そやね、大きな物語って文字通り神のことだけど、ニーチェのように神の死なんていうと、ハイデガーの寄与のように最後の神といわなければならなくなるほど、終わりようがないね。@LitoSnowfield それは“大いなる物語は終わった”とどうような早計ですね〜

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posted at 18:44:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

しかし、つねに逆説を要する循環なのだが、仏教徒だからかスピノザの方法がデカルトのコギトを物と描写したからかしらないが、ニーチェの死んだ神も、ハイデガー寄与の最後の神も、どこか欺く神のようにみえて、デカルト~カントの感覚批判に差し戻したくなるものなのだ。@LitoSnowfield

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posted at 19:00:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

・・と、人は、そうしたハイデガーを批判するものとして、メルロ=ポンティー『知覚の現象学』のコギト論のスピノザ批判に当たるのだろう。それが、死んだ神に対する最後の神を説いたハイデガー『寄与』が死後刊行される前に受容された意味に、立ち返るのであった。@LitoSnowfield

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posted at 19:20:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

メルロ『知覚の現象学』は序文の通り、ハイデガー主著の挫折を、フッサール批判の失敗と捉えるのだが、スピノザのcotigansの描写を批判するのが『知覚の現象学』であるなら、ハイデガー『寄与』の転回を予見していない、ということになりかねないからね。@LitoSnowfield

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posted at 21:09:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

デカルト以降、コギト批判しかないのだが、ハイデガーの場合、スピノザのようにego sum cogitans(國分によると方法による描写)と捉え、(斎藤が指摘するように)方法を分節しようとしているようなのだが、メルロの場合、当初は方法が未分化に見えるね。@LitoSnowfield

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posted at 21:26:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

メルロ=ポンティのコギト論は、フッサールのコギタチオから、スピノザの汎神論を捉えハイデガーに批判的なように見えるのだが、ハイデガーの場合は、コギトをスピノザのコギタンスで捉えて、フッサールが〔コギト=実体〕と捉えていないと批判しているように読めるね。@LitoSnowfield

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posted at 23:16:02

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