大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月10日(木)
ハイデガーの講義が読みやすいのは説教だからだな。それは、古代の形而上学で無とは「形作られていない素材」という命題だが、神学が「無から生じるものは被造物」としために、科学は被造物しか扱わなくなった等々。@LitoSnowfield pic.twitter.com/ZEfgnM8tzs
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posted at 03:37:42
「無」を問わない科学は、何も問うていない(存在という動態の忘却)のと同じだ、というような説教なのだが、無が虚無になることから、無が有になることへの転回が、斎藤によると『寄与』らしいからな。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 03:42:18
直感的にダメだろうね。いかにも日本の仏教徒が好みそうな、事実的なキリスト教への先鋭化された批判にみえるのだが、ミイラ取りがミイラになるなこれは。@LitoSnowfield 先程の“空即是色”ではないけれど仏教な方面で理解?しようとするとトラップに嵌りそうな文章ですね〜
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posted at 03:59:03
「デカルト以降、ニュートンが絶対空間を予め想定したが、そこに現前する事物は延長であるに過ぎない。そうではなく、道具全体性として差し当たり出会われる事物が、古代ギリシャの事物とともにあった場所性を回復する。」と非現前性を命題化しているのだが~ @LitoSnowfield
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posted at 04:37:33
~こうした近代科学の命題すら、読み取れないのではないか? 興味深いのは熊野新訳は旧訳の「客体」を「目の前にあること」と眼前存在性とすることで、旧訳では「出没」とされていることを、明確に「現前」と訳出し、そのことで非現前性のことであると訳出できている点。@LitoSnowfield
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posted at 04:40:24
さすが彗眼ですね、そうなのです新訳のほうが正しいのだが、非常に読みづらい。旧訳は肝心なことを隠蔽するが日本語として読みやすい。このことはかなり重大な問題に思える。@LitoSnowfield 新訳は…当然に原文の悪さ?も引き継いでいますが…文章の流れが緩くて少し間延びしたように感
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posted at 04:52:52
そうです。デカルトがコギトを神と同義の「実体」と名付け、事物をコギトの延長としてしまったことで、空間は世界より先立って数学的な空間としてあることになったが、そうした延長からは世界に出会えない。延長は被造世界を前提としているからだ、という批判です。@LitoSnowfield
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posted at 05:09:48
その点、斎藤氏の博論は、方法を分節化し、そこから、非現前性の命題として転回を読み取る、というのは頭がスッキリするので、経文を読むよりは遥かにましだ。ハイデガーも講義になると説教モードになって滔滔と喋るみたいだが、元カトリックはほんとに困ったもんだ。@LitoSnowfield
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posted at 05:30:43
歎異抄にだって、経文を読まなきゃ往生できないなんて、そんなあほなと読まれてるわけだが、近代を取り入れるにあたって、経文読まなければ往生できないんだから、気の毒なのだ(^-^)/ @LitoSnowfield ああ〜書き込みと同様な色即是空な方向
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posted at 05:48:01
むひひ、ここの訳文の違いは絶妙すぎて最高。今度は旧訳が不用意に現前といってしまってるが新訳が打ち消している。288段落冒頭。味わい尽くしてみてww(^-^)/ bit.ly/1i2TQsx @LitoSnowfield
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posted at 08:36:41
288冒頭「〔方面〕は空間の中に予め現前しているのではなく、不断の目配りをする世界-内-存在が手許存在を〔場所〕に割り当てる中に生じる。」「方面は空間に予めあるのではなく、その都度時間的に場所の中に見出すのが不断の目配り」なわけねw @LitoSnowfield
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posted at 08:45:27
ハイデガー主著が一回的な用語の未整理-現象によって未完に陥るデカルト批判と対比しても、スピノザ~ドゥルーズのジャーゴンを整理する半田さんのヌースの方が、遥かにわかりやすいデカルト哲学原理批判。twitter.com/kohsen/status/... @LitoSnowfield
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posted at 15:03:41
これだけ、特定の共同体を説得するために聞き手に神要請をし、事物をコギトの延長にし、認識を鈍らせる感覚の批判だけに陥ってしまったデカルト~カントは罪深いということだろうね。火あぶりの刑でいいな(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 15:42:19
コギト(と延長)をデカルトが自己原因である実体と捉えたかどうか、というのがハイデガーにとっては存在忘却かどうか、だからね。twitter.com/sunamajiri/sta... 半田さんの「延長は実体ではない」というのはハイデガーによれば存在忘却なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 23:33:52
半田さんはたしか「延長ではない奥行きの幅の無さ」が「時間の実体化」で「それが量子力学をも捉えるヌースだ」という、シュタイナーではないが、オカルトになっているのだが、ハイデガーによると、デカルトが延長を実体と捉えたことこそが存在忘却なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 23:44:52
おそらく、カントのアプリオリ問題も、このデカルトは延長を実体としていないはずだ、と間違ってしまった(存在忘却)ということでしょう。デカルトはコギトとコギトからの延長を、神と同じ実体とした、という一点しか問題となりようがない、ということです。@LitoSnowfield
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posted at 23:52:19