大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年12月16日(火)
哲学にとってトンデモとはユダヤだ、というのは二日目に中田光雄御大がシンポを否定したとおりである。ハイデガーの存在史とは、文学であって哲学ではない。その文学はレイシズムではないにしても陰謀論的ですらある。だから研究者はハイデガーを貶すことを研究という。
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posted at 00:07:29
それでも研究者は職業的に、哲学であることを公共性といい、ハイデガーを個別的実存ではあるが、公共性のない独我論だ、つまり病気だと貶すことを研究と言い続けるのだ。その滑稽さが、ハイデガーの黒ノート自体によって、明示されたようなシンポであった。
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posted at 00:08:57
たしかに、先日『ハイデガー読本』を刊行した若手によるハイデガーフォーラムは、これまでの秘教的なハイデガー研究に対比すればだが、一般読者に寄り添うハイデガー読解になってきているのだろう。だから斎藤元基氏には、却って一般読者に分かりやすい話題ばかりだ、と私は会場でいう羽目になった。
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posted at 00:17:15
来日したザラデル氏によると、黒ノートはハイデガーによるハイデガリアンの拒絶だという。ハイでガリアンから見ると黒ノートは、そもそも哲学的にはトンデモのハイデガーの秘境性のなかでも、群を抜いて秘教的なテクストということになってしまう。たしかに読む気はしないが、しかし陰謀論だ。
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posted at 00:19:29
ハイデガーがシオン議定書を彷彿とする陰謀論に迂遠な言及を行うのも、むしろ陰謀論に陥ったナチズムのレイシズムを拒否するためだろう。つまり、陰謀論が陰謀論によるレイシズムを拒否るために要請されているのだ。このことを研究者が非公共的という視点だけで捉えたわけである。
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posted at 00:21:33
研究者は陰謀論をトンデモ、つまり哲学的公共性に悖るとするが、ハイデガーはレイシズムを拒否るために陰謀論に言及する。たしかに黒ノートは差別語を含むから生前公表はされなかったことになるのだろうが、死後公表を遺言していたのだ。どこにステレオタイプがあるのかを問う必要があるのだろう。
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posted at 00:27:23
私にはハイデガーにはないステレオタイプが研究者共同体には存在するように見えた。ハイデガーの道、存在史的思索、存在理解には、ステレオタイプの発生源がある。だから研究者はステレオタイプを確実に抹消する方法がないという。つまり、一般読者の公共性に託されてしまう。それを公共性という。
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posted at 00:40:45
確かに哲学にとっては単なる差別語(中田御大)にすぎない反ユダヤ主義は、黒ノートの中ではレイシズムとしてではなく、工作機構(machenshaft)の述語として登場するそうだ。またそれは近代という主語に対する述語になるのだとトラヴニー氏は論じる。つまり近代の一般読者のことだ。
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posted at 00:43:30
さて、黒ノートシンポの感想の続き。ユンガー研究者の千坂氏がツイートtwitter.com/Chisaka_Kyoji/... したように、ハイデガー批判という面が際立ったのは二日目だ。とくに三島憲一氏などが、殆どハイデガーを戯言といわんばかりであった。
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posted at 20:41:45
三島憲一氏は、ハイデガーが独我論的で、還元主義的で、陰謀論の道を開いている、とハイデガーにないのは公共性だという指摘をすると、トラヴニー氏は、公共性ばかりではヘルダーリンを含め、哲学を捉えきれないと議論に発展しかけたが発展しなかった。
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posted at 20:41:58
加藤恵介氏も「いくつかの区別について」という発表の通り、二日目の対論は、おもに仕分けのような話に陥り、そこではハイデガーのブレとか非公共性が強調されてしまったのだろう。しかし、一日目の斎藤元基氏は、ハイデガーにはブレがないと捉え、むしろハイデガーが公共的だという発表を行っていた。
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posted at 20:46:33
黒ノートはトラヴニー氏によると、ユンガーを引用し、工作機械として近代形而上学を批判し、その際に「世界ユダヤ組織」という述語がでてくるようだが、黒ノートの最初の部分(94巻)は、カント書を否定し、メタ存在論に転回するために公共性を問うている、と斎藤氏は立論しているようだ。
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posted at 20:47:00
このように、黒ノートシンポは、二日間に渡り、公共性とは何か、ハイデガーは公共的なのか、ということを殆ど主題にしていたといってよく、その内実を把捉していたのは、斎藤元基氏の94巻の読みであったと見える。そこではステレオタイプも、「存在史的ユダヤ主義」と括弧にくくられる。
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posted at 20:58:07
一般読者は、ハイデガー全集の読者ではないという意味で言ったのだが、しかしこの話は意外と一般読者にこそ分かりやすい話にどうしても思える。そのあたり、もう一度再考して、あらためて感想をツイートするかもしれない。
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posted at 20:59:21