大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年03月04日(水)
鍵RT @jeanbeauty2 決定論、つまり、ニュートン的な理神論に、従わない自由が、人間には与えられている、ということを、カントは、考えていたのではないのでしょうか。
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posted at 00:15:39
ダヴォース論争で、カッシーラーがハイデガーが「拡張させた」というようなことを言ってますが、ハイデガーは拡張ではなく、カントを最大限に引き出しただけだ、ということをいっていますね。当然そこから逆行しているわけではない。不徹底を解明してるだけでしょう。@jeanbeauty2
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posted at 00:17:45
信仰に戻る話ではないですよ。しかし不徹底だと信仰に戻される。カントの転回を最大限引き出すというのは眼前性や被投性なのでしょうが、丸山文隆が結論するように『現象学の根本諸問題』では学校概念に引き戻されてますね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/UPLEROr1Vs
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posted at 00:28:21
鍵RT @jeanbeauty2 現象学的還元の結果、純粋意識が取りだされそこに立ち現れる(アレテーア)その現象の構成分析をするときにカントでは認識の仕方を問う問題で経験の成立の構成を問うという意味で経験に先立つアプリオリな問いであるといったという。起源への哲学では書きてますね。
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posted at 11:48:39
斎藤慶典フッサールでは、カントでは先験的とも邦訳しうるが、フッサールでは先験ですらない、経験に含まれるとしてますね。ハイデガーはそれすらカント用語とするようですが。カント学を専攻したってこと? @jeanbeauty2 習ったときに pic.twitter.com/RIiwpOBNWm
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posted at 11:53:02
鍵RT @jeanbeauty2 哲学特講(実存哲学)の講義で、カントがでてきてアプリオリは先天的と訳さないで、アプリオリのままがいい、そして、tranの方は先験的と訳すことがあるが、超越論的と訳すのがよいというお話でした。超越と超越論的と区別し理解するようにという話しでしたね。
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posted at 12:10:34
でしょうね。先じるでは、戻ってしまいますからね。この問題系をすべて超越論と一括すべき、ということでしょうね。しかし、確かに門脇『カント書』では「超出」という訳語が頻出しますね。@jeanbeauty2 tranの方は先験的と訳すことがあるが超越論的と訳すのがよいというお話でした。
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posted at 12:12:37
実存と実存論以上に、存在と存在論が差異であるようなものなんでしょうね。ちなみに木場訳『カント書』では「超越的構想力」、門脇訳では「超越論的構想力」となってるようですね。@jeanbeauty2 超越と超越論的と区別し理解するようにという話しでしたね。
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posted at 12:14:06
カッシーラの時間ー内ー神話、真理ー内ー存在に対して、非真理ー内ー存在(ハイデガー)、それに対して、自然ー内ー日本人に対して家庭ー内ー夫、母権ー内ー父、で神話解体ww(^-^)/ @LitoSnowfield 家庭内検閲…(*^o^)> <RT
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posted at 12:44:30
そうそう。地平創造の話でしかないからね。たとえば、カッシーラーなんか真理ー内ー存在、永遠ー内ー存在、蓋然性からはじめて、ぜんぜん偶然に直面できないじゃないか、と地平という点で切り捨てられてたでしょ。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 15:03:24
あれはねー、暗黙裡だろうが、ハイデガーが言うように蓋然性、つまり神のような地盤からはじめてしまってるんだよ。決定論だということに気づかないタイプ。永遠とか自由とか言い出す始末だからね。偶然という時間に直面できていない。@LitoSnowfield
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posted at 15:09:43
ダヴォース論争 bit.ly/1FQnACj で明らかなように、カッシーラーは自由とか永遠とか、いわばその内心に執着してるだけね。挙句に神は人間の創造物、人間は永遠や蓋然性や必然性の源、神だと思い込んでることになる。尊大ね。@LitoSnowfield 内心
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posted at 15:26:43
当然、カントだって、 同じことを言おうとしているのだが、言えたのはせいぜい勇気 twitter.com/Kantbot/status... ぐらいで言葉足らず。そこで誤解するとカッシーラみたいに無限が人間にあるのが自由だとか言い出すね。@LitoSnowfield
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posted at 15:37:05
人が神の造り手だ、という思想だからね。能力主義だから、人間の能力を無限と思い込んでるわけよ、カッシーラー。それに対して、神に有限なんかあるの?と問い返してるわけよハイデガーが。カント書ってそういう地平。@LitoSnowfield “無限が人間にあるのが自由”
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posted at 15:49:46
鍵RT @jeanbeauty2 意識の志向性からして、実在の対象に向かう、それは意識から、外へということで、超越、そして、その意識が、旋回して、自分自身に戻ってくる、それが、超越論的と考えたらいい、と、講義で、教わりました。それで超出という訳は?
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posted at 16:21:47
ダヴォース論争でも、意識という自明的な古名は斥けた、といってるほどですからね。その仕方については『カント書』の手前、『現象学の根本諸問題』の挫折としてあるみたいですが。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/835qLtciHy
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posted at 16:29:33
たとえば、ダヴォース論争で、超出は超越の一部にすぎない、といった趣旨がありますね。超越の仕方の一つなのでしょう。英訳でも超出はgoing-beyondなどと訳語化してますね。@jeanbeauty2 それで超出という訳は? pic.twitter.com/mGhpGfan7v
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posted at 16:31:14
鍵RT @jeanbeauty2 フッサールの超越論的意識を、デルタイの影響を、うけて、時間的な現存在と、規定したのが、ハイデガーであると、ペゲラーでしたか。言っていたと思います。ベゲラーの解釈学哲学では、カント書についての言及は、あまり、記憶にないです。チェックが、あまいのか。
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posted at 16:36:03
オットー・ペゲラーは、ジャン・グレッシュが神学寄りのことを言うのに対して、デリダなどその後の問題の参照枠のようだけど、いわばカント書的転回以降の話で、もはや自明的だからで、回避してるわけではないでしょう。どれだけ明確化してるかは知りませんが。@jeanbeauty2
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posted at 16:38:15
カント書付録のカッシーラーへの書評 bit.ly/1zDZOVB ではどっちが(カントを恣意的に)拡張してるんだ?と人間の能力の無限性を蓋然性や永遠から疑わないカッシーラーをやり込めてますね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/LhUjtq9CA4
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posted at 16:56:45