大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年05月15日(金)
やはり再話を構成するのは困難ね。話題は、SNSで距離感を見失ったおじさんは病的なカルトの話題しかしない、という辺りだったが、本題は、戦前ハイデガーがカント解釈で解決したようなものを隠蔽すると、オカルトではなく直接カルトになるが、それを取り戻したがっている時代になった、という話。
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posted at 10:03:56
大本教は戦前弾圧されたのだが、安倍政権が取り戻したい政府というのは戦前ではなく、大本教よ。日本会議というのは、大本教が政治家を教育する団体だしね。こんなんばっか。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 10:06:54
これも面白い。twitter.com/sunamajiri/sta... スエーデンボルグこそ、カントが批判した理性だ、といううちのご近所で岩波カント全集総監修の故坂部恵のカント観を表明的に前面に出し、ハイデガーのデカルト批判を断罪しようとしたのが柄谷行人のトランスクリティークなわけだが。
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posted at 10:12:51
確かに、大地震を予知する霊能力のようなもの、つまり理性をカントは誤謬として批判している、という坂部恵~柄谷行人的なカント観は妥当だが、だからといってハイデガーのデカルト批判を転覆できるという柄谷は、あまりに一本調子で信用できない。
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posted at 10:22:10
まあ、柄谷行人のハイデガーへの違和感というのは、日本近代文学が戦後の小説性、三島が仏教的輪廻譚に漂着するような、日本固有の小説性に対する反動なのだろうから、そもそもハイデガーへの違和感ですらなく、トランスクリティークよりハイデガーのカント観しか妥当でないと思うのだが。
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posted at 10:34:42
当然、戦後的な三島も柄谷も単にカント的退却の犠牲者で、ハイデガーがカント書に至る戦前、カントが時間(超越論的構想力)から退却する、というカントの理性に対する動揺を見抜けたにも関わらず、それをフロイト的な無意識と単純に短絡させる何かが禍しただけだろう。
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posted at 10:44:20
ハイデガーがカントの退却を問題にして、カント書に至る、いわば戦前というのは、斎藤元紀がいうように、アリストテレス霊魂論の問題から、カントの動揺をハイデガーだけが直接見抜けてしまった点にしかない。
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posted at 10:47:14
簡単な話なのだよ。たとえば、《分解できること(事態)》があるなら、対立項として《分解できないこと》ということがなければならないが、それはなにか?という地平にしか、話題がない。
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posted at 10:49:06
物が分解できるなら、分解できないことは物ではないが、それは神なのか霊魂なのか、という話。アンセルムスの神の存在証明も中世の霊魂の存在証明も、分解できない《一なる全体》の話でしかないが、そうした《理性》を批判しようとして、うまくいかなくなってしまうのだ。それを退却というのだ。
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posted at 10:51:40
カントが成功したのはどの辺りまでかというと、分解できないのは物(対象)ではない、空間と時間という現象だ、という発見。それによって、分解できない《一なる全体》が神ではなくなったことになるのだ。
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posted at 10:53:51
デカルトでは思惟=自発性が優位なのよ。我思う故に我ありなのよ。しかしそれでは神を観念として要請して受け入れなければならない。カントが発見したのは、そうした《神要請》がなくても、自発性を可能にする《一なる全体》を現象として発見したことなのよ。カントの退却というのは、そこからの退却。
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posted at 10:56:29
いいかえると、神は人間の捏り物であっても、空間や時間は人間が造れないのよ。それがわかれば、人間は神を捏らずに、現象に向き合えるのね。それを純粋直感(一なる全体を空間と時間に布置すること)というのよ。
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posted at 10:59:11
問題なのは、人間は考えてしまう。考えるというのは直感ではなく悟性なのだが、その悟性が純粋にはどのように可能なのか、というところで退却、つまり神観念要請への回帰がおこるのよ。現象がみれ(え)なくなるのね。
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posted at 11:00:26
西欧人というのは、全体と部分とか、分解できることと分解できないこと、というように考える。物が分解できるなら、分解できないことは、物ではないというように。ところが、日本人は、分解ができることに対して分解ができないことがあるという、思考を重視したがらない。
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posted at 11:03:58
カントが大々的にそこで動揺して、退却してしまう。そういう喜劇を演じたのが純粋理性批判だが、そのせいで、ロマン派どころかオカルティズムが再興してしまう。この退却は、フロイト的無意識というよりハイデガー的忘却で、日本ではなぜか勢いカルトのような語り方ばかりになっていく。
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posted at 11:07:08
非常にシンプルな話なのだ。カントがハイデガー的に分かれば、なにも怖いものがなくなるのはそのためなのだ。ちなみに、このように何も怖いものがなくなったタイミングで、歴史的に、第二次世界大戦になったようなものだ。
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posted at 11:09:30
カテゴリーで霊魂を考え=思惟するゆえに我在りと思うから、実在性を考えてしまったり、フランス人の好きな思弁に陥ってしまったりするのだろうが、それでは一なる全体はカント~ハイデガーがいうような時間の純粋性(超越論性)ではなく、神に退却してしまうのよ。
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posted at 11:11:38
リト @LitoSnowfield さん、ハイデガーの『カントの純粋理性批判の現象学的解釈』ポチって読むんだっけ? ハイデガーは主著より講義録が主著であるほどで充実していて読みやすいのだが、中盤以降は純粋理性批判に対するテクスチュアルなクリティックになっているから読みづらいかも。
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posted at 11:16:17
とはいえ、ハイデガーはカントのここ(概念の分析論)にカントの《構想力からの退却》という動揺があり、以後純粋理性批判の大部は構想力に対する戦争状態、いわば茶番だと証示するのだが、日本で定訳らしい天野訳なら bit.ly/1d0v79U @LitoSnowfield
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posted at 11:25:13
ちなみに定訳とされる天野訳は、ハイデガーが喝破する第一版から第二版への動揺を隠蔽してしまうような編集になっているので、訳文はさておき高峯訳のほうが、邦訳なら参照しやすい。天野訳はすすめられない。熊野訳の方がましかもしれない。@LitoSnowfield
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posted at 11:27:20
しかし、ハイデガーがその都度カントを引用するし、ハイデガーの和訳文に統一されているので、引用文だけの方が訳語ばかりか、述部解釈の混乱を来さない気もする。ちなみに思惟が構想力に奉仕するとしたカント解釈講義書では、構想力は想像力という訳語になっている。@LitoSnowfield
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posted at 11:43:09
ハイデガーが難読に思えるのは、カントが構想力に奉仕するだけの思惟や自発性を純粋化させようと退却した茶番を叙述して難読化しただけで取るに足らない。上の箇所では概念の多様を触発する一性が問われているだけで、ハイデガーはそれ以外に問題はないと論証していく。@LitoSnowfield
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posted at 11:47:37
その概念の分析論の6段落に対するテクストクリティークで、論理学的分析では悟性や思考は現象に達さない。空間と時間という一性だけが、思考(概念)の多様を保証している、つまり数学のようなサブカテゴリーでは、人間の思考の多様性は純粋綜合されない、そんな話題をしていることになる。
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posted at 11:53:02
肝になるのは、《統一とか全体》に対する《多様としての思惟》という対立項ね。ハイデガーは、なぜ多様があるのか、という話を、その論証に先立って超越論的分析論で、カントの一性の問題として暴露してしまっているからなのだが。
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posted at 11:54:34
それは、ひとことでいえば、カントが一性だけを叙述しようとしている、ということで、多様というのは一性に対する多様でしかないないのに、一性を度外視しては、多様性、つまりカテゴリーは得られない、という話なのだが。
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posted at 11:55:09
非常にスリリングで面白いよ。ハイデガー以外の人の語りが、つまんなくみえてくるのも、こういうところだから。カントを、カテゴリーを思惟する故に実在性を問うている、と誤読する人々に向けて、ハイデガーはカントは怠っていないが、単に論証できなかっただけ、と一蹴してしまう。
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posted at 11:57:31
最近、他の人の語りがつまらなくみえて困っている。おそらく、第二次世界大戦を目前の時期に、そうなったんだろうな、みんな他のこと(ハイデガーによるカント解釈以外のこと)が凡庸に見えてしまったタイミングで、一気に戦争になったとしても不思議ではない。
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posted at 11:59:12
こうしたカントもアリストテレス同様、眼前の対象を現象と受け取れていない、というカント講義書の話はカント書の構想力の超越論性としての超越論的時間規定の因果律に対する優位に結実するのだが、それで全て問題が解決してるので、戦争ぐらいしかやることがなくなってしまったんだろう。まわりがね。
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posted at 12:03:02
戦後以降、今はそれがまた覆われて見えづらくなっているので、カルトのようなものが台頭するのは不思議ではない ある意味、カルト的に問題が隠蔽されているので、戦争なんかおこらんとおもうよ、今は。イスラムのプラトニズムだけ戦争になるみたいだが。
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posted at 12:04:41
デカルトの神観念要請に唯一応答できたカントが、一者を構想力を触発する時間と明確化できたのに、動揺して退却してしまった。それでデカルトの要請が謎掛けのように残っていたのだが、ハイデガーが全て払拭してしまった。しかし、戦後は柄谷がハイデガーを批判してデカルトというような事態なのだ。
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posted at 12:07:11
ハイデガーカント講義によれば、カント自身、概念の分析論(概念の多様の統一性の根拠)で、それはアリストテレス霊魂論の構想力(時間による純粋触発)だ、と口を滑らしてしまうのだが、その瞬間から、カント自身もうわけがわからなくなっていくのだ。完全に精神病状態といっていい。
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posted at 12:10:18
こうしたカント講義書は、斎藤元紀氏のハイデガー読本の要約が、ハイデガー以上に非現前的時間に言及していて秀逸だが、しかしハイデガーの本文の方が読みやすいだろう。ただ道に迷ったら、斎藤元紀の要約に立ち返るとよい。いま話したあたりはここ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 12:12:47
日本の状況に戻れば、戦後はこうしたハイデガーによるカント退却の解決のストレートさが、なぜか迂遠に封印されて、戦前のカルトのようなものがますます台頭している。カルト的であればあるほど戦争にはならない。ある意味平和ボケのようなものだ。日本のリベラルの迷走もそのあたりにあるのだろう。
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posted at 12:14:59
戦前はハイデガーによるカント的退却の解決は広範囲に共有され、そのために戦争のようなことにも直結し得たのだろうが、なぜか今では権力者は、そうしたものから疎外されることで権力を得ている。それでは戦争もできないだろう。みんな被害妄想しているが。
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posted at 12:18:34
しかし、今では《前-退却的カント》と《後-退却的カント》しかなく、後者のほうが優勢だった状況を、ハイデガーが転覆させた後だ。確かに、退却的カントの方が何かと学問にとっては有用だが、それは単に有用というだけだ。ハイデガーのカント解釈の秀逸さは、どんな解説書よりもストレート。
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posted at 12:22:04
このハイデガーの直球を回避すると、おそらく柄谷行人のようなアンチハイデガーのような起源論になる。カントにとって一性は時間なのに、柄谷にとって時間はフロイト的無意識となるためか、単独者を一性にしてしまう。しかしそれは転回ではなく転倒だろう。
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posted at 12:24:08
柄谷はデカルトのコギト(思惟)は、土着に呪縛されず外国に旅することで、マルクスだけがそうやってカントを差異性から読んだが、ハイデガーは土着に呪縛され、カントを誤読した、とトランスクリティークで捲し立て、それがナショナリズムであるようにいうのだが、おそらく転倒だろう。
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posted at 12:25:43
ところで、柄谷行人のトランスクリティークで引用されるハイデガーは、旧岩波文庫版の桑木のひどい訳文なのだが、柄谷の読書というのは、今日ハイデガーは全集を主著とするという傾向と著しく乖離しているように思える。そうした不正確なヤマカンに何か意義があるとは到底思えない。
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posted at 12:29:00
と、昨日朝、リト @LitoSnowfield さんとのカジュアルすぎるLINEチャットのログを転載しようとして、大幅に再話するはめになった連投終わり。あとはリトさんの『カントの純粋理性批判の現象学的講義』前半の超越論的感性論の感想をまつばかり。(笑)
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posted at 12:32:17
ツイートまとめ@FB(^-^)/ 柄谷行人のトランスクリティークに見られるハイデガー批判の是非について。
www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p... ハイデガー『カント解釈講義』から『カント書』というカント退却論は、柄谷においていかに回避されているのか?
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posted at 15:11:15