大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年06月10日(水)
そうね。twitter.com/sunamajiri/sta... しかし、そこが肝心な点なのだ、要約するように試みると~ @LitoSnowfield 疑心暗鬼になってしまっている相手に動揺という言葉を持ち出しては逆効果ですね〜
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posted at 16:41:31
おそらく、それこそハイデガーの説を綜合できればだが、先ほどの点を看過するとメタボレーにならず、一気にドグマの話に転落するということだろう。なのであえて、カントは動揺している、そういうハイデガーには動揺がない、という一点だけを話題にするようにしている。@LitoSnowfield
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posted at 16:43:25
メタボレーなのかドグマなのか。私が気にしているのは、柄谷でも廣松でも西田でも井筒でも誰でもいいんだが、柄谷が指摘するように、なぜ日本人という非ドイツ人には、ハイデガーのようにカントの動揺を明らかにできないのか、そこにはどんなドグマがあるのか、という一点だけ。
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posted at 16:45:56
ハイデガーのカント書による転回、メタボレーというのは、単にドグマをドグマとして完全に露わにし、ドグマからの完全な離脱をすることなのだが、しかしカント書を読めていないと、メタボレーのつもりが一気に単なるドグマタイズになるらしくて、必ず仏教がでてくるのだ。@LitoSnowfield
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posted at 16:48:31
そこで仏教とは何か、という定議論になるのだが、そうではなく、「カントは動揺している、そういうハイデガーに動揺がない」というメタボレーというのは、仏教とは何か、といったような定義の問題を完全にドグマの側に貶めることなのではないか。そう思えているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 16:56:54
実際、私達個々人はどちらかというと、ハイデガーのようにメタボレーして日常生活ができていて、日本のようなお布施に頼らない独特の仏教国家では、仏教は単なる葬式仏教で済んでいる。つまり定義の問題を回避する、メタボレーが生活になっているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 16:58:46
しかしここで、ハイデガーのカント書によるメタボレー(つまりそれはメタボレーのキャノン=聖典になってるのだが)によらず、日常生活ではメタレベルの私達が、メタボレーを独自に定義しようとすると、絶対的にドグマタイズされるらしいのだ。そこが興味深い。@LitoSnowfield
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posted at 17:00:54
重要なのは、ドグマからメタボレーするためには、誰かがドグマを犠牲的にマックスで語ることが要請される。ハイデガーの場合、おそらくカント書が転回の明確な内的必然性で、それがハイデガー受容の根本問題。だから内的必然性と動揺(可能性)が二項対立なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 17:06:39
ハイデガー受容史では、内的必然性の立証ができない、ということだけが唯一の論点になっていて、事実、カント書とその前史であるカント講義書を度外視すると、カントではなくハイデガーに動揺があることになってしまう。そのように受容されてきたのだ。@LitoSnowfield
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posted at 17:09:57
私は読むこととは何か、ということだけを厳密に考えているのだが、このカントに動揺があるのか、ハイデガーに動揺があるのか、というドグマの問題で、読みが明らかになる。@LitoSnowfield
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posted at 17:10:39
カント書で語られるのは、時間というドグマの超越論化、つまり超越論の時間規定化というメタボレーの内的必然性の論証の問題だが、そのことで彼以外に誰も規定を語ることを免れたのだ。それで私達は日常的にメタレベルで生活していても、何の違和感もないのだよ。@LitoSnowfield
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posted at 17:13:22
動揺という用語は、ハイデガーのカント講義書に多用されるハイデガーの気分論のジャーゴン。ちなみに、柄谷行人は、それを精神分析の抵抗という語彙で代補することで、ハイデガーの問題を克服できると考えているのだが、たぶんできない。@LitoSnowfield
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posted at 17:20:35
それよりも明晰に、丸山文隆が、カント講義書とカント書の決定的な亀裂を言い当てている。たとえば、カント講義書では、カントのドグマが淡々と列挙され、それがその都度、カントの動揺という名称で呼称される。そういうメタボレーの途上性なのだが、たとえば~、@LitoSnowfield
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posted at 17:23:26
~たとえば、このカント講義書のページの辺になってくると、カントのドグマは動揺というメタボレー語で呼称されていない。それはなぜか、時間の規定性そのもの、つまりカント書のメタボレーを先取りしているからなのだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/cReygjV8eM
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posted at 17:25:48
こうしたメタボレー(端的にカントを〈動揺〉と呼称することが、メタボレーという名前の内実だが)を、柄谷行人のトランスクリティークのように、精神分析の〈抵抗〉に言い換えることはできない。精神分析の転位はメタボレーではないという証明なのだが。@LitoSnowfield
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posted at 17:28:55
精神分析には転位があるが、ハイデガーのメタボレーや気分論には転位がない。被投性テーゼでは宇宙の外部視点がない。世界内存在の外部に柄谷行人が超越論とするような、神の視点がない。そういうことが重要なのだ。それ以外はドグマであることに変わりがない。@LitoSnowfield
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posted at 17:30:20
これは文字通り、このぐらい下らないQED twitter.com/alfalfafafa/st... なのだが、それは精神分析の幾何学などというものが、いかにくだらないか、言い換えると、柄谷の精神分析が幾何学的に実体論だ、というQEDだからだろう。@LitoSnowfield
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posted at 17:44:46
私は廣松は度外視しているはずだが、柄谷に宿っているそうしたもの、何らかな物象化論の幾何学のようなもの、それはハイデガーが行った、今語られたようなカントのメタボレーに根本的に対立するものだ、という霊感がある。ただそれだけの話題だ。@LitoSnowfield
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posted at 17:59:10
このように、「動揺」というのは私の語彙でないばかりか、丸山文隆が指摘するカント講義書とカント書の間の亀裂、それを明確化するハイデガーのジャーゴンなのだ。単純に、動揺=ドグマ、メタボレー=動揺を幾何学した上で、幾何学に戻らないこと、といったらよいか。@LitoSnowfield
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posted at 18:01:00
一般論だが、読めていないものに対して、ジャーゴンを単語的に抜き取るというのは、私が極力しないことなのだ。文は単語=名詞ではない。そのように名詞と受け取られかねない用法はしない、という時間の規定を破るとき、何か誤謬が起きるからなのだが。@LitoSnowfield
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posted at 18:03:52
最近、LINEではトラウマとリビドーの連環の話題、ツイッターではハイデガーのカント書という供犠の話に、引き裂かれてるのだが、やはり過去には戻れないこと、という超越論性、つまり時間規定であるときに、リビドーの話ばかりさせられている気がしてきた。
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posted at 18:30:00