大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年07月10日(金)
なんで努力なんて禅みたいな話になるんだ? 自己という術語を使うから陥る、現象学が開陳したカントの問題というのは、超越という「働き」を持て余す、大人になるな、という程度の話ですぞ。@BHiroguma 自己の客観視 @inja650rr pic.twitter.com/TlLYENWgI5
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posted at 01:22:53
端的に、フッサールは純粋綜合に時間ではなく自己という術語を見出したから、先自我などと造語しなければならなかったが、ハイデガーは自然を世界に含めていたので、時間そのものを純粋な規定性としてカントの綜合に発見できたということですよ。@BHiroguma @inja650rr
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posted at 01:24:25
カントは不滅の話をしているが、神という要請のかわりにフッサールのように自我に先立つ起源というより、自然が先立つのだから、自我は端的に時間である、という言明が成り立つだけの議論で、確かに読むのは難しいが、言っていることに精進など不要ですよ。@BHiroguma @inja650rr
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posted at 01:28:58
若見さんが結論しているように、私に先立つ私というフッサールの自我の先行性(田口のいうフッサールの原自我)、自我が自我の後方に退去する自我分裂より、時間の脱自性、時間が自我の後方に退去して、自我を将来化させるものとして捉えるハイデガーの世界には、自然が含まれているね。
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posted at 06:19:58
自我を起点に自我から退去して自我を捉えればデカルトの神が要請されるだけだが、カントの時間を起点とすれば、先行する自然に対して自我は時間の脱自態になり、いわば自然内将来として実存する、というように堂々巡りが解消しているのよね。bit.ly/1KSrZuJ
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posted at 06:29:24
差延を、フッサールのように自我の退去として捉えるか、時間の脱自態として捉えるか、自我は二通りにしか捉えられないことになるが、やはりハイデガーのカント書のように、自我ではなく時間を根源規定とすれば、堂々巡りにならずすっきり解消、つまり合理的に理解できるね。
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posted at 06:33:28
あ~、田口茂のフッサール原自我 www.amazon.co.jp/review/R382P5H... の、脱自的自我に対するフッサールの自我退却、疲れる。ハイデガーの脱自的時間に戻りたい(^-^)/ pic.twitter.com/hUmv79IQoV
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posted at 06:42:52
方法を間違うのを煩悩というだけですからね(^-^)/ @BHiroguma 考えてはいけないと思うだけで思考停止できる人が果たして世の中に何%いるのか?努力、精進ではなく正しい方法で獲得できるスキルだと理解してます。
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posted at 17:21:49