大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年08月31日(月)
現実認識がおかしいとFBでレスがあったが、そもそもカントの永遠平和という概念は、むしろより直接にアメリカの独立宣言の欺瞞を批判することであり、アメリカや右派はそれを分析するが、左派が綜合を有耶無耶にするから、現実問題危ういのだろう。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...
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posted at 17:35:10
ハイデガーがカントの動揺を収め可能性の中心に言及するときに、デカルトの自我という規定性をバッサリと切り捨てるのだが、それがこの一般的人間という規定なんだろうね。カントが想定した超越の地平を見えなくしてしまうということなんだろう。twitter.com/inja650rr/stat...
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posted at 17:55:17
たとえば、柄谷行人はカントをデカルト化して読み、ハイデガーの規定性をバッサリ切り捨てるのだが、それによってはカントが切り捨てたような起源論に陥ってしまう。twitter.com/sunamajiri/sta... それに終止符を打つには、どの規定性を選択すべきなのか、という問題。
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posted at 17:57:47
デカルト自身はそうでしょうけど、ドイツ語圏ではライプニッツ~ヴォルフの形而上学の近代化のようなことが起こったそうだからねー。それを取り戻すためには自我を規定から外し根本から見直す、ということが起こったんでしょう。@inja650rr デカルト先生はそれに気が付いているのではないか
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posted at 21:25:06
そこで大切なのは、カントをライプニッツに戻すような読みが問題なんでしょう。そのためには、カントが自我から時間に根本的に規定性を変更し、超越論に至った、という道筋に忠実でなければならない。そうでないと隠者さんのいうような自我一般などということになってしまう。@inja650rr
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posted at 21:28:44
肝心なことは、一般性を実体化させないことです。自我が一般化してしまうと、霊魂まで一般化してしまう。相対的に霊魂という規定が非一般性として語られるのはそのためです。カント以降、一部西欧人が仏教に惹かれ、ハイデガーに皮肉られるのは、そういう点です。@inja650rr
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posted at 23:11:22