大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年09月08日(火)
@sunamajiri ご返信ありがとうございます。今現状(いやこれまでも長く)個々人間で語られることは主観というよりも、直観に近いような内容において議論が交わされているように思えているのですが(これも主観)、ただそれが真に「間主観性」を目指すものならば、武谷三段階法における→
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posted at 07:14:30
@sunamajiri 2段目(ある程度の実体性裏付け)、3段目(その実体性を複数事象から抽出し、共通点を見出し還元し、フッサール的にいえば本質を観取する)というディベートを行うことができれば、「人それぞれオチ」とか、個々人の思い込み信じ込み披露に終始しないのかもしれないかもなと
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posted at 07:19:46
武谷が機能主義ではなく実体を捨象しても質点あるいは量子を含むといったようなことは、フッサールがカントを動力学として捉えられず純粋自我に絶対化する中で、ハイデガーが動力学的に自我から時間に根源規定を非実体化する転回に言及するのに似ていますね。@whiskylink 人それぞれオチ
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posted at 12:24:26
今日、廃止というと聴こえの悪い国立大の文学部の理系への綜合が取り沙汰されているが、それも、こうした質点以上の規定の非実体化、あるいは量子化が個々人が具備する機能となるとき、そうした綜合も奏功するのかも。@whiskylink 個々人の思い込み信じ込み披露に終始しないのかも
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posted at 12:29:16
問題は武谷が批判する形而上学が、カントのいう形而上学=動力学ではない、ということに尽きると思います。質点やフロギストン、あるいはエーテルは菊池健三によると晩年でも保持されている。つまりカントは途中で転回していない。ハイデガーもおそらくそうです。@whiskylink
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posted at 12:35:37
日本では文学部がハイデガーの転回の内的必然性という論点だけに収束・解消した感があるが、カントもハイデガーも形而上学から転回していない。それを実体論的に誤読すると武谷のように、質点は保持して形而上学が批判対象となる。しかし総合すれば同じことなのでしょう。@whiskylink
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posted at 12:38:13
おそらく上の方で、通用問題を欺く神の権威を批判する伝達問題のように矮小化する話がでてきたから、非実体的規定という形式的告示が、間主観性のような方法の問題として俎上に載せられるのだろうけど、しかし転回と見えるのは転回していない側だけの問題、ということでしょう。@whiskylink
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posted at 13:44:21
当然、質点も量子も、古代の規定によって、単に予想されていたもので、近代の遠隔作用の物理学は尽く、カント的にいえば独創的発明ではなく、単なる発見にすぎない。その発見を進歩のように日本では短絡してしまうのだが、認識の問題は特に目新しくはない、というだけでしょう。@whiskylink
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posted at 13:45:01
あくまでも弁証法によって実体を得るというのは仮象でしょう。現象的には規定だけが問われている。実体を規定とすれば仮象の弁証法が始まるが、その実体は無限に発見されない。しかし、非実体を規定とすれば弁証法はハイデガーのように克服され、無限性が発見されるといった。@whiskylink
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posted at 13:55:37
気になるのは、日本の文化なのかもしれないが、弁証法を意識を実体化させるための方法のように捉える点ですね。カントの脳理論というのは、非実体的規定である霊魂の非実体化の超越論ですが、日本では意識を霊魂のように実体化させる弁証法が好まれる。@whiskylink
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posted at 13:57:38