大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年10月23日(金)
ハイデガーはこの新カント派の解体者として歴史的なのだが(ナチズムによって新カント派が一掃されるということと一致しているのだが)、日本でも西田幾多郎は新カント派の心理学を批判しているのだ。それが戦後に伝承しきれず、有耶無耶になっているという問題があるのだ。@inja650rr
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posted at 00:04:21
対する英米思想というのは、ハイデガーが排除した形式性(存在証明的な無限遡行)なのだ。それが戦後に流入したので、戦後の日本では記号論から深層心理学に陥ったり、ハイデガーが解体した形式性が復活してしまったのだ。戦前に戻ろうというのは、思想史的には正しいのだ。@inja650rr
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posted at 00:07:45
深層心理学はさらにポスト構造主義の脱構築の問題などにいたり(オイディプスや象徴化の形式的な問題)、それが80年代ニューアカとなって飽和したとき、オウムのような超権威への帰依という形式問題が日本では顕在化したのは、記憶に新しいところなのだ。@inja650rr
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posted at 00:10:04
ハイデガーは、深層の形式性を退け、感謝や愛という問題を語るとき、その非形式性、あるいは当為や実践、つまり形式的に目的を捉えニヒリズムや終末論に陥るのではなく、それこそ量子論的に、不確定な未来という非形式的な目的を、現在に把捉する方法的懐疑を記述しているのだ。@inja650rr
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posted at 00:11:57
ただし、その記述が非常に読みづらく感じられるのは、超越論性=批判哲学として語っているからで、批判されている当のものが、日本では特に戦後に伝承されていないので、ハイデガーのいう非形式性が非常に読みづらく、形式性のように誤解されるのだ。@inja650rr
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posted at 00:14:28
なので、端的にハイデガーが読めているというのは、それを形式性の破れ、あるいは非形式性として、ちゃんと受け取れている一部の人に限られるという問題が生じているのだ。それが現代ではある種の権威主義になっているのは否めず、それをもう一度解体する必要が生じているのだ。@inja650rr
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posted at 00:15:52
戦後、ハイデガーの超越論的批判の批判対象が伝承されていないことで、一部の人しかハイデガーの非形式性を理解できない権威化が生じているとはいえ、それを釈迦への帰依という形式的な超権威と混同することを、たとえば柄谷批判などによって、私は常々批判しているだけなのだ。@inja650rr
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posted at 00:19:19
超権威が形式的なのは、それが伝承の破れだからなのだ。それをデカルト的な通用問題に対する伝達問題と私が常々批判していることなのだ。批判や批判対象が正確に伝達されずに通用しなくなったコトバは、帰依の対象のようになってしまうのだろう。@inja650rr
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posted at 00:21:11
デカルト的な通用性の問題では通用しない、伝承の不備、つまり超権威化によって何が起るかというと、非形式性のようなもの、実践的なもの、当為のようなもの、それが喪失されるという事態なのだ。それを私は大袈裟でも何でもなく、一義的に憂いているのだ。@inja650rr
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posted at 00:22:59
端的にハイデガーはそのこと、つまり方法的懐疑の徹底だけを正確無比に記述しているので、その精確性から逸脱するのはかなり危険。戦前戦後問わず、日本でも仏教者が修行のように読むものになっているのもそのためだろう。@inja650rr 私は御釈迦様を愛していますが帰依はしていません。
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posted at 00:32:36
@sunamajiri 理解に自信があまりないのですが…
作者の死や思想史の空白により伝承が途切れ
言葉から本来の定義が抜け落ちる。
そして時の権威により形式的に再定義され伝えられる(告示される)
こうして伝わってきたものが「形式的告示」である…という理解で宜しいでしょうか?
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posted at 00:38:55
その理解は悪く無い。ただ形式的告示というのは書かれた当のものが、非形式的な予感(気分)を自覚的に書いている(予示)ということなので、その自覚性を隠蔽するのが権威が用いる形式性である、という理解の方が自覚的で良いと思う。予示を隠蔽するのが権威。@inja650rr
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posted at 00:45:01
たとえば、ありてあるとか、我思う故に我ありとか、そこに光あれといったらあるとか、そういう存在というのは、実在性のことではなく、無自覚が目的を先取りする惑乱のようなものに対して、自覚しているから予示を明言できるという意味。@inja650rr
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posted at 00:52:24
ちなみに存在とは言明の勇気のようなものだが、勇気のいる表明とは愛の表明のことだからだからね。私は釈迦にもキリストにもさほど愛を表明しないのだが、愛というのは宗教心とは違い、愛されることの明確さだからかもしれない。釈迦に愛されるのなら私も対等に愛を語るだろうが。@inja650rr
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posted at 01:54:17
だからこそ、表明とか言表とか明言というのは、判明な意識のこと。不確定な量子論的確率論的な未来を予示というのは、どうなるかわからないで怯えることではなく、勇気を振り絞って未来に対すること。そうした表明性は、君の言う無記と同じで、無限遡行のことではない。@inja650rr
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posted at 02:06:15
ちなみに存在とは言明の勇気のようなものだが、勇気のいる表明とは愛の表明のことだからね。私は釈迦にもキリストにもさほど愛を表明しないのだが、愛というのは宗教心とは違い、愛されることの明確さだからかもしれない。釈迦に愛されるのなら私も対等に愛を語るだろうが。@inja650rr
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posted at 02:06:55
ところで、シンポで大橋容一郎氏 twitter.com/sunamajiri/sta... が語った、ハイデガーや西田が批判した当のものとは、戦後に有耶無耶になった新カント派のスピリチュアリズム=唯心論的形而上学。心の中に物の実在性を語る形而上学を批判できるかという問題。@inja650rr
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posted at 02:07:27
つまり、端的に表明する勇気のことである存在とは、心の中の実在性という無限遡行や形而上学に陥ることなく、その内向的なものを超越する、ということなのだ。しかし、なぜそんな簡単なことが、晦渋に叙述される必要があるのかを、精確に捉えなければならない。@inja650rr
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posted at 02:43:15
戦前の新カント派が途絶えるのは、ハイデガーが解体したからでも、ナチズムの台頭で大学が荒廃したからでもない。心的実在という実在性が、外的実在に対抗して、主観として捉えられていたからだ。そこでは存在論、つまり心的ではない実在に対する勇気がタブーとされていたのだ。@inja650rr
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posted at 02:47:23
心的実在というのが、新カント派のいう認識論=心理学だったのだ。しかし、端的に心的実在が無限遡行なのだ。それを批判するためには、カントの批判哲学、つまり超越論の規定が命題化するのだ。だから存在論は超越論的規定だけを問題とする。それは勇気のための規定といえる。@inja650rr
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posted at 02:51:56
まとめれば、存在とは表明する勇気だが、それは心的実在という形而上学に無限遡行しない勇気のことなのだ。しかし、勇気は規定抜きには表明できないのだ。勇気で表明されるのは心的実在に無限遡行しない愛のことだが、それには超越論的規定が要請されているのだ。@inja650rr
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posted at 02:54:49
それはこう言い換えることができる。論理学や数学が非本来的な形式のままでは、心的実在への無限遡行という心理学と全く同じ地平にある。それが非超越論的地平、あるいは非本来的な形式なのだ。未来が不確定なように、心的実在=心理学や非本来的地平からは、未来は把捉されない。@inja650rr
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posted at 03:01:50
ハイデガーの懐疑方法である形式的告示は形式ではないのだが、逆説すればそれは非本来的形式ではなく、本来的形式のことなのだ。同じように、論理学や心理学という新カント派の地平は、非本来的地平であり、非超越論的地平、つまり非時間的超越論的規定であるのだ。@inja650rr
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posted at 03:03:55
このように、今日スピリチュアリズムとしてしか伝承されていない、新カント派の論理学・心理学という地平が、非時間的であるとして、ハイデガーによって解体されたのだ。だからこそ、それは心的実在という無限遡行ではない。@inja650rr
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posted at 03:05:03
現代の地平はどうだろうか。それが心的実在や深層心理学を主観性として語り、形式性を客観性として語るのだとすれば、それはハイデガーが問題にしたように、極めて危険な非本来的な地平なのだ。心的実在こそ無限遡行や形而上学であり、そこに頽落しない地平が要請されているのだ。@inja650rr
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posted at 03:14:23
それは批判哲学=超越論哲学としてしか問題にできない。心的実在に頽落しない規則の規定は、批判からしか生まれないからだ。よって、本来の形式が形式的告示(予示)としてしか有り得ないというのは、超越論の規定も時間的にしか有り得ないということだ。@inja650rr
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posted at 03:20:31
このように、形式的告示(予示)という自覚性は、本来的形式性のことで、それが予示であるように、極めて時間的な自覚性だ、ということがお分かりになったかと思う。端的に非本来的形式とは、非・無時間的な規定による形式、非動力学的論理規定ということであるに過ぎない。@inja650rr
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posted at 03:22:08
最も実際的に重要なのは、無時間的論理規定という非本来的な形式性では、あらゆる無限遡行が生じてしまうということだ。それが心的実在や、弁証法的時間規定や、ゼノンのパラドックスなのだ。したがってそれは形式性ではなく非本来的形式性なのだ。@inja650rr
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posted at 03:23:57
ハイデガーが(戦前末期のカント書で最後に)いう超越論的時間地平というのは、そうした非本来的形式性を批判する本来の地平のことで、実際的には永遠時間や終末論やニヒリズムの克服のことなのだ。それを一言で言えば勇気や愛ということもできよう。@inja650rr
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posted at 03:26:37
ハイデガーシンポの報告を一般化してツイートすることが出来ない。それは一部のハイデガリアンしか、ハイデガーが批判した当のものを周知としていないという状況、あるいは事情によるのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 03:57:19
たとえば、ハイデガーの指導教官であるリッカートに対して、同じくリッカートの弟子であるラスクから、ハイデガーがいかにリッカートを批判できたか、ということなどが各論としてシンポジウムでは話題になったわけだが、そういうことを報告しても、誰も文脈を周知していないからだ。
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posted at 03:59:02
ハイデガーはリッカートをラスクから批判し、有意味性の存在論に到達した、という話なのだが、より一般化すると、心的実在を形而上学する唯心論者を、超越論哲学によって批判すると、時間という問題、存在は時間、あるいは時間は存在だ、という意味論が出てくると捉えることも出来る。
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posted at 04:02:47
こうした有意味性の存在論は、ヤスパースの限界状況(死の問題)から、時間を有限性へ規定し直す超越論的時間地平への道が開けるが、それを単なる実存状況、あるいは境地のように語ることに対して、ハイデガーは黙する、ということも問題だ。端的に自分の限界状況=死は語れないからだ。
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posted at 04:06:49
しかし、実存論以上に、シンポジウムでは司会者であった斎藤元紀氏の「始まりのハイデガー」観が重要だ。ハイデガーの方法的懐疑は、様相性(可能性)を現象学的還元する以上に、フロネーシス(実践)を形式的告示(当為)と捉えることだからだ。
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posted at 04:13:23
その点では、斎藤氏が司会した第一部で、始まりのハイデガー観に疑問を呈した古代哲学者の神崎繁氏の発表があまりにも重要だ。アリストテレスのフロネーシスを、ハイデガーが中世以来始めて、良心にまで拡張した、という議論だからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 04:15:59
つまり、ハイデガーはアリストテレス的な実践(フロネーシス)を、形式的告示という当為によって、良心に拡張したことになるのだが、そのためにはストア派への言及が、意識的に回避・排除されている、というのが神崎繁氏の始まりのハイデガー観への批判であった。
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posted at 04:18:10
始まりのハイデガーが意図的に排除するストア派というのは、デカルト以後ではスピノザの問題であるが、レヴィナス~ザラデル的には旧約、あるいはセムの問題であり、ハイデガーでは現勢的霊魂規定、神崎繁氏の言い方では振幅型葛藤の霊魂規定、というアリストテレスの規定の仕方だ。
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posted at 04:22:22
実践を現勢的に規定するという問題は、二元論的な葛藤(心身二元論)を形式として自明化することなく、形式的告示(予感)として自覚するということを意味する。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 04:26:47
ところで、ハイデガーが旧約やセム、あるいはスピノザやストア派、もっというと現勢的霊魂規定や振幅型葛藤、あるいは一元論を形式として自明化せず、二元論を自覚的に形式的告示とするのは、セム的一元論の形式性を言明するためだとも言える。一元論は自明的ではなく、言明される本来的な形式なのだ。
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posted at 04:29:48
こうした本来的な形式を隠蔽するものが、第二部で新カント派を総括した大橋容一郎氏の語る、唯心論・心的実在の形而上学、スピリチュアリズムなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... つまりスピリチュアリズムは一元論の本来的形式性を損なう(無限後退な)のだ。
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posted at 04:32:37
このように、ハイデガーはスピリチュアリズム、あるいは神秘主義、心的実在という形而上学を徹底的に根絶するために、心的実在論者=認識論者がタブーとした存在論に、始まりのハイデガーから向かうことになる。それが二元論を自明化しない、形式的告示という方法的懐疑なのだ。
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posted at 04:40:40
方法的懐疑が、初期フライブルク期(前主著期)に、実践の脱神学化として顕れ、それが形式的告示という方法となり、実践の良心化に向かう途上で、主著期以後、それが脱弁証法的時間、あるいは超越論的地平を発見する、唯一の途だったのだろう。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 04:46:12
感想を述べれば、それは、歴史化された新約に対して、旧約やセムや一元論の非歴史性を再形式化すること、言明という実践の時熟的な遂行歴史のようであり、もはや終末や歴史の次の段階に、人間の言明=存在が及んだ、という出来事であったように見える。
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posted at 04:50:33
カント書に付録のダヴォース論争で、ハイデガーと対峙するカッシーラーの弟子を論じた米のヒラリー・パトナム twitter.com/sunamajiri/sta... は量子論の観測問題で有名だが、ユダヤ教徒の信仰告白をするハーヴァード講義で、ヘーゲルを批判して時間と歴史の違いを力説していた。
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posted at 05:03:48
忘れてはいけないのだが、歴史とは新約のことであり、時間とは旧約のことなのだ。歴史の非時間性、時間の非歴史性を論証するために、彼らが量子論に到るまで、どれだけのものを費やしているのかに、我々日本人の疎さのようなものは、まったく通用しないのである。
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posted at 05:04:48
本当に同意です!死から逃げるために形而上学に逃げるという事は頽落に堕ちた生き方であると思います。真理は遠ざかるばかりです。
形而上学を回避しながら追究をしていくこと
それこそが「先駆的決意性」というものであると僕は理解をしました twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 14:03:34
要するに浮つくな、という迷いを断ち切ることを、どう方法的に語るのか、ということだからね。落ち着けということなんだが。それは心的実在や深層や唯識にあるのではなく、もっと現勢的、表層的、瞬間的、機会的というだけなのよね。心のなかに実在がある、というのが迷いだから。@inja650rr
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posted at 22:59:10
今朝FBで書いたけどね。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p... 「中世神学では神は存在証明の問題だが、デカルト以後はそれの放棄なので、神は証明されずとも存在していることになるのだ。それは心の中に神が実在するのではない、という重大な問題なのだ。」@inja650rr
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posted at 23:05:26
不幸なのは端的に、日本ではなぜか西欧が中世神学的な西欧という固定観念が強くて、そこから抜け出せないあらゆる妄想が噴出してしまうことなのよね。現代の日本人が、異様に迷いに陥るのは、ほとんどそのことなんではないかと思えるほどなのだ。@inja650rr
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posted at 23:07:12
それもまだ混乱しているのだが、端的に日本では敗戦後、心的実在や深層心理学や唯識を記号論的に形式的に語ることが大流行になるのだが、あれはスピリチュアリズムだからね。ハイデガーの言うような形式的告示にはなってないよね。中世神学の殻に戻るようなことなのだろう。@inja650rr
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posted at 23:14:59
ちなみに、戦前のハイデガーが批判した心的実在論が、現代ではスピリチュアリズムとして語られることだ、という時のスピリチュアリズムって、たとえばいまRTしたようなことも一例なんだけどね。おわかりとおもうが。twitter.com/lakudagoya/sta... @inja650rr
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posted at 23:20:24
それはそのとおり、ハイデガーは形式への懐疑の全容を語ろうとしているのだが、見て見ぬふりをしたくなるのよね。今朝のFBの冒頭でもちらっと触れているのだが。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p... @inja650rr 形式的告示を見て見なかったふりをする事形式的な語り
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posted at 23:22:54