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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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2015年11月19日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

さて、ここまでGA26-199の転回の内的必然性を、疎外論からの転回(カントの第一原因に対する客観からの転回)として解釈したが(内的必然性とは疎外論からの転回の内的必然性である)、それを~ @BeTakada pic.twitter.com/n3sXUtYayA

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posted at 02:36:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

それを、丸山論文の結論部 bit.ly/1PNUJpn から見てみましょう。転回が内的必然的なのは、疎外論(第一原因に対する客観)が転回を必然化するということですが、これをハイデガーが表明できているか、という問題です。@BeTakada

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posted at 02:37:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

疎外論からの内的必然的な転回をハイデガーは表明できているか。それは丸山結論部冒頭の「ハイデガーのテクストの弱さ」の問題です。そのため従来は転回は内的必然性として読まれなかった、とあります。@BeTakada pic.twitter.com/YHzBkqDnFh

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posted at 02:40:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

つまり、疎外論からの転回という内的必然性を断念するドグマがあり、内的必然性があるというハイデガーの表明を、無視した解釈がドグマ化してしまった、というのが、そこに付せられた注15でしょう。@BeTakada pic.twitter.com/GHzRUjRtSg

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posted at 02:41:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

もちろん、内的必然性はハイデガーの語り方(順序)の必然性だが、しかしそれは疎外論が齎す転回の内的必然性である。ドグマはそれ自体で解体されようとするものなのだ。ドグマであることがここでは対立的に外的と形容されている。@BeTakada

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posted at 07:16:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

ハイデガーの順序では、超越を世界内存在と言い換え、それをまた超越という言い方に戻す。それは、現存在であることから疎外された人間を、現存在と既成的に語ること(存在と時間)から、現存在になっていない未然的な人間を語ること、への順序性だ。@BeTakada

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posted at 07:23:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

この順序は、メタ存在論への転回後の、事実的実存の還元のために必然化される。つまり『存在と時間』では既成の現存在として語られた人間が、単なる存在者という現存在の未然性として語られる。GA26では、人間は現存在ではなく非現存在、つまり存在者と語られているのだ。@BeTakada

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posted at 07:34:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

ちなみに、ハイデガーは用語(ジャーゴン)がすぐにひっくり返る。とくに現存在は『存在と時間』では、人間の事実的実存のことだが、GA24ではカントの現存在が事実的実存でないという意味で使われ、GA26では人間との対立用語として使われるので、慣れるまで一苦労なのだが。@BeTakada

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posted at 07:54:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

GA26で現存在ではないものとしての人間が語られるのが、丸山が引用する世界入場(全集では世界進入)の一文。これは事実的実存からみれば、世界内存在する現存在とは、世界に進入する可能性、つまり途上のことだ、という文。@BeTakada pic.twitter.com/xU7xpaBEsT

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posted at 07:58:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

この存在了解以前の人間は眼前の「周囲の自然に埋没してしまって区別ができない」存在者だが、この「全体における存在者」としてしか、旧来の客観という形而上学が疎外した、事象としての人間は現存在として生起しない。@BeTakada pic.twitter.com/P2WpOq3kfq

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posted at 08:15:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

よって、「全体における存在者」とは、存在了解する前の人間が存在了解=現存在に至る被投のことで、それに対する「存在者の全体」とは人間を眼前存在と企投し、存在了解できないことの謂なのだろう。@BeTakada

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posted at 08:19:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

いずれにせよ、客観とは第一原因ではない根源的直観の「われわれ」であるが、客観を前提させる旧来の形而上学では、全体における存在者、つまり事実的存在としての人間が、存在了解=現存在であることから疎外されている、と語るために必然化した順序なのだ。@BeTakada

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posted at 08:24:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

GA26-250「実存する者としてのわれわれがそのうえ前もって諸客観を前提する必要など最初から全然ない」と、後の疎外論に至るデカルトの方法的不徹底、非本来的形而上学を解体するには順序が必要だ、と言っているのだ。@BeTakada pic.twitter.com/jxu3VguhsL

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posted at 08:39:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

事実的実存も、即自的客観というドグマを解体する順序ではない。実存は客観を解体しない、順序が客観を解体する。そこにはもちろん疎外論ではドグマは解体できないことも含まれている。疎外論は誤った順序である。しかし、日常的先存在了解はより決定的に誤った順序だ、というのがメタ存在論。

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posted at 18:10:03

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

そう思いますね。概念的だと分かりずらいので、単線で略図化すれば、非本来的形而上学→客観→疎外論→実存論→ハイデガーの順序性(先存在論的存在了解=基礎存在論→メタ存在論=非眼前存在)→存在了解→本来的形而上学という。そこに丸山論文の順序性。@BeTakada

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posted at 22:32:51

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