大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年12月13日(日)
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posted at xx:xx:xx
ファミレスでサラッと拝見。世界の無について、GA24だけに依拠していて、メタ存在論へ転回して無化された無時間的世界が、まだ維持されてそうな立論ですね。京都学派風なのかしら?@BeTakada pic.twitter.com/SkfD7hjkVj
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posted at 01:10:57
それら2論文 twitter.com/betakada/statu... 、帰宅してから精読しますが、かなり知見が古いですね。まだハイデガーに対する独特な先入観に支配されているような、古い語り方の亜流と直感しました。@BeTakada
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posted at 01:29:22
先程の一本目repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstre... は「ニヒルとは、価値的なニヒリズムではなく、存在論上のことで、すなわち存在を存在者として忘却することだ」は分かりやすいですね。@BeTakada pic.twitter.com/qMFBzSbJGy
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posted at 02:44:45
価値の問題をはじめ、形而上学が語られることを、無存在論=ニヒリズム=存在忘却と呼んでるわけですからね。前期の存在論的差異から転回した後の二重襞、ノエイン(思惟)とエイナイ(存在)の間の仕方の話ですね。 @BeTakada pic.twitter.com/rQDj8gB9v5
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posted at 02:56:22
範疇論的、図式論的。twitter.com/sunamajiri/sta... ハイデガーでは図式論は時の根源規定性のことなのだが、その話でご近所の哲学者とお茶をしながら少しお話をしていた。
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posted at 19:30:50
図式とはわかりやすさ、のことなのだが、菊池健三『カントと動力学の問題』amzn.to/1P017KJ をお貸ししたところ、案の定、ちょっと図式的すぎる=分かりやす過ぎる、という感想を言っていた。
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posted at 19:33:20
そのとおりで、ハイデガーでは、図式論はあくまでも時の根源性という図式=地平=新体系化ということなのだが、菊池健三はハイデガーの時に言及せずに、カントを動力学に図式化してしまっている、といえる。重複部分は、人間学の命題だけである。
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posted at 19:35:56
図式は時に於いてしか判明にならない。それは時間が空間との止揚という近代の思弁に対する図式=地平だからなのだが、それはカントの動力学の問題ではなく、ハイデガーのカント書の問題だ、という点で、ご近所の哲学者と一致した。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 19:38:01
これはどういうことかというと、たとえば動力学でも物理学でも形而下にすると、まるで図式的に思えてしまうのだが、それが本来の図式性ではない、ということなのだ。時だけは脱自的にしか志向できない。あるいは時は志向できない、という図式だけが本来的に図式性だからだ。
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posted at 19:44:11
図式性というのは、カテゴリー(範疇)よりも、分かりやすいということなのだが、それは物理学や形而下で図式化することではなく、図式性ほど形而上的、あるいは時間的だ、という図式が問題になるのだ。したがって図式は動力学的であるよりは存在論的なのだ。
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posted at 19:45:51
ところで、ご近所さんはメルロ=ポンティ・プロパーだが、サルトルの『存在と無』も、ハイデガーのカント書への転回の未読性という話から、メルロも、フッサールの晩年、つまりハイデガーに反論されたフッサールから逆立して捉えるので、決して図式的ではない、ということを今言っていた。
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posted at 19:50:06
GA26末尾の脱自態 bit.ly/1OdbIlj のコピーがあったのでお渡ししたら喜んでいた。無とは基礎存在論あるいは対自即自性の無のことであり、メタ存在論あるいは脱自性の有のことだ、という文脈から始まる、といういわば図式性を告げると、それをメモっておられた。
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posted at 19:53:30
時は空間や延長との近代的思弁による止揚でも、意識の志向対象でもない、という脱自態、純粋図式性とは、存在論のことなのだ。存在論とは、純粋図式の地平のことで(存在論は図式的なのだ)、存在忘却とは、こうした地平=図式を忘却することなのだ。
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posted at 20:21:24
ところで、故坂部恵先生の、生産的構想力講義ノートを引越し荷物の中から大量に見つけたそうだ。坂部先生は岩波カント全集総監修で著名だが、講義ではカントの非理性、あるいは生産的構想力の話しかしなかった、という話なのだが。こんど閲覧させていただくことにした。楽しみである。
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posted at 20:21:51
お互いジャズミュージシャンでもあるのだが、時の脱自性という、ハイデガーの基礎存在論からの転回の問題は、クラシックとジャズの違いほどだよね、というと、そうそう、と二人とも納得したのであった。したがって、内的時間意識の現象学批判の問題、つまり図式性は、極めてジャズ実践的なのだ。
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posted at 20:22:08
さっきもご近所の哲学者とその話をしていたのだが、フッサールの内的時間意識の現象学、つまりメロディーの話というのは、『存在と時間』への反論だからね。ハイデガーはそれに対する反論を、転回として語っているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 21:25:17
RT @LitoSnowfield どちらも時間…タイミング大事ですしね〜(*^o^)> <スポーツとか演劇。台本は過去なのだけれども演者の中の台本は過去ではないのでは? …とか(*^o^)>
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posted at 21:26:21
そもそも、時間は数えることだ、というアリストテレスの規定があってね。カウントすることね。それを延長と言い出した近代から、いわば音楽的に歪む。ハイデガーは今現前だけが時と規定するのだが、フッサールはメロディーを想起するのが今だというのね。@LitoSnowfield
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posted at 21:27:59
今現前だけが時の規定だというのは、今を意識する自意識は、過去に過ぎ去った自分だ、ということなのだ。気後れのことね。twitter.com/sunamajiri/sta... 音楽をもし定義するとすれば、気後れしないことだからなー。@LitoSnowfield
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posted at 21:29:45
RT @LitoSnowfield フッサールはんは完全に聴衆というか…ジャズでは聴衆も演奏的に聴くことを要求されますが(笑)…音楽を絵画のように鑑賞なのですよね〜フッサールはんは現象…音楽を聴く…というのを捉えようとして鑑賞者自身内部の現象…時間…を見落としたように見えますね〜
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posted at 21:31:19
音楽家にとっては、演奏や作曲する自発性あるいは触発性も、聴くという受動性も、単に今現前的・現存在的に同時的でしかなく、音楽を発するというのが単に超越的なだけだからね。聴こえて遠ざかる過去把持、想起を時間の規定とするのは、音楽の規定ではないね。@LitoSnowfield
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posted at 21:34:07
それも、時間的でしかない図式性が、カントでは範疇論になっていくからだろう。それは時間的には単に気後れのことでしかない。ハイデガーのカント書というのは、カントの二元論である範疇論を完全に解体する聖書なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 21:35:53
カント書は、非常に読みづらい本だけどね。純粋理性批判の図式論とインターテクストになるからだが。しかし一言で要約すれば、カントは時間が非本来的だから、範疇化しているだけで、時間を本来化すると、図式になるという話をしているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 21:38:24
カントが、そうした今現前という時の規定に表明的でないことが、ハイデガーの批判点なのだが、古来からの哲学の根源規定である魂と時のうち、カントは魂を誤謬推論して、客観をとりだしてしまうからなのだ。ハイデガーは客観を誤謬推論して、時を取り出すのだ。@LitoSnowfield
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posted at 21:39:14
カントの客観というのは、神の視点のことだからね。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield まぁ…客観はヤバイですからね〜(笑)そもそも…客観という発想自体が召喚魔法かも(笑)
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posted at 21:40:19
GA25カント講義書が詳述しているのだが、派生的直観と根源的直観があって、根源的直観というのは、神のように第一原因でないのに擬似的に神の視点に立脚することなのだ。カントでは根源的直観=客観、派生的直観=非客観というふうになっている。@LitoSnowfield
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posted at 21:41:31
この二重性によって、物自体と現象という二重性がうまれるのだが、これは霊魂の不滅の誤謬推論によって生み出された客観性なのだ。ハイデガーはこの客観性自体を誤謬推論、無効化してしまい、時の問題、図式論に到達しているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 21:42:08
そうそう、大抵はその物自体と現象の二重性、つまり原因でないのに客観という、非生産的構想力で転倒して、思惟が止まる。@LitoSnowfield ハイデガーさんぐっじょぶ! これはハイデガーさんのような厳密にじり寄りで進まないと出来ませんからね〜
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posted at 21:43:37
ハイデガーはカントの、原因ではない=非生産者的なのに客観という、いわば非生産的構想力を誤謬推論しているようなものなのだが、その結果、範疇論に対する図式論を、カント書で人間学の根源規定と布置することに成功しているのだ。おそらく人類史の中で前例がない。@LitoSnowfield
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posted at 21:45:55
よって、図式性=わかりやすさ、とは客観のことではないのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... どうしても、図式性は物理学のように感じてしまうのだが、じつはそれは範疇論的で、図式性は時を意識できないという図式性のことでしかないからなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 21:46:36
要するに、ハイデガーはニヒリズムを否定しているのだ。ニヒルとは、時の図式論である存在論ではないこと、非存在論であること、言い換えれば、時を意識することだからなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 21:48:05
そうそう、キャラとしてもニヒルというのは、単なる自意識過剰の演技過多。うさたんみたいな天然の正反対だしねww 俳優座でのうちの親父が演技チックなので、オイディプス殺ししてるのだ @LitoSnowfield ニヒルさとは冷静さみたいにカッコ良さげですがただの自家薬中毒ですもん
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posted at 21:51:21