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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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Favolog ホーム » @sunamajiri » 2016年03月06日
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2016年03月06日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

存在はレアールな述語ではない、つまり超越論上の述語であるにもかかわらず、述語論理学はそれを領域存在論と誤解し、語りえないものを語らない。これが超自我なのだが、それでは政治が不可能になってしまう。東には、そうした批判性があると捉えればどうか? ハイデガーにはその図式性があるからだ。

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posted at 06:34:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

タカ基地さんが GA24 bit.ly/1RuzaaK の「存在はレアールな述語でないのはなぜか」という議論を踏まえずに、いきなり「存在者の全体」を列挙して、それに対して私が応答していたのを見て、いきなり汎神論から噛み付いてきた人がいたでしょ?@BeTakada

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posted at 08:47:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

重要なのは、超越論的論理学が一般形而上学だ、という超越論的図式性=存在論なのです。スアレス形而上学が、カントの超越論的論理学の源泉なので、なぜ図式は概念ではないのか、というハイデガーの知見が必要なのです。bit.ly/1ps7gpx @BeTakada

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posted at 08:48:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

特殊形而上学VS一般形而上学に対して、領域存在論VS全体存在論という図式性があるということですが、東大レポジトリの井上氏 bit.ly/21OdvFr より、ハイデガーのカント書の方が、より図式的だという点で、私が留保しているということです。@BeTakada

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posted at 08:55:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

ハイデガーのカント書というのは、超越論的論理学の概念論は全体ではなく(領域的)で、図式論が全体(領域存在論に対する超越論的批判)で、人間は概念である以前に、如何にかという方法的懐疑だ、というものなので。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 09:02:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

ヒュポケイメノンを先言的措定とする井上忠という話を以前したが、井上忠の『プラトン分有論からドゥンス・スコトゥスのこのもの性論」がネットにあった。何でもあるなネットは。jsmp.jpn.org/jsmp_wp/wp-con... @BeTakada

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posted at 12:37:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

タカ基地さんが「自由」という語彙に拘るのだが、GA31がエックハルトの消極的自由(自然と神からの自由)では、存在者の全体の領域の違いを語るだけの領域的存在論であり、存在論の自由は、全体における存在者への被投性だ、という切り口から入るでしょ? @BeTakada

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posted at 12:42:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

それがGA33のアリストテレス形而上学1047、「ロゴス(語り)の力の外は無力だ」になるわけで、とにかくギリシャ人には言葉という概念がない。対する聖書にはダヴァール=言葉という概念があり、ロゴスはそこからは論理にみえる、ということだけが問題だから。@BeTakada

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posted at 12:44:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

たとえば、日本語なら、私は言葉を喋ってるが、それは形式的で本心ではない、と嘘を言えるのだが、ギリシャ語には言葉という概念がないので、語ってしまったらすべてそのものになるのだ。聖書には言葉という概念が有るから救われるわけで。@BeTakada

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posted at 12:45:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

そこでハイデガーは、言葉は領域で、全体ではないという話をしているのだ。語りが全体における存在者となるためには、言葉という領域性を介在せず、全体性で捉えなければならない。それには、概念ではなく図式性で捉えるしかないという話題なわけよ。@BeTakada

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posted at 12:48:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

井上忠のいう先言的措定より、カント~ハイデガーの超越論的図式性の方が優れているとすれば、図式性のほうが先言性自体に言及できるからだろう。ギリシャ語にはダヴァール(言葉を指す単語)がない。しかしダヴァールがあると、ロゴスが何か別のことに思えてしまう。@BeTakada

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posted at 15:48:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

もしこれ(ギリシャ語にはダヴァールに匹敵する語彙がなく、ダヴァールからはロゴスが何か別のことを語っているように思えること)を、図式論上のことではなく、概念論上のこととすると、先言性といわなければならなくなってしまう。@BeTakada

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posted at 15:50:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

そもそも、ロゴスの力の外に力があるとは想定できない、というのは、ダヴァールからみるとロゴス中心主義なのだが、しかし中心主義もなにも、そもそもロゴスが全体だ、というのが図式性なので、中心性という問題が、そもそもおかしいのだ。@BeTakada

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posted at 15:52:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年3月6日

言葉でもパロールでも何でもよいが、聖書のダヴァールのように、言語を道具とする概念を発明すると、ロゴスが外力を表示してしまう。言葉では本心を言わない、という救いが誕生する。しかし、そうした言外がそもそも想定されていない、というのは図式的にしか判明にならない。@BeTakada

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posted at 15:58:17

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