大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月05日(木)
私が気になっているのは、ナトルプ報告~寄与論考という、ハイデガー読解の近年のエポック以後の話ですね(動物論です)。それは、デリダはなぜメタ存在論=何となく退屈であることを、取り逃がしたのか、という問題です。まさに脱去できなくなる。@BeTakada pic.twitter.com/WLUMhUhorZ
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posted at 19:18:41
それは、東が鋭く指摘したように、ハイデガー的なゲーデル問題Gを、PMで自明化して通俗的に解釈してしまうことが、人間の認識 twitter.com/moroQma/status... 、つまり現存在であることを奪う、そういう今日最も重大な関心事に直結しているからでしょう。@BeTakada
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posted at 19:24:21
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柄谷の通俗的ゲーデル解釈を批判する東が、ハイデガーをゲーデルと見做してデリダを読解するわけ bit.ly/2icFmvb だが、水木のゲーデル論 bit.ly/2hPpXUS のいう数学者の通俗性という告示も偶然ではない。@BeTakada
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posted at 20:35:55
ちょっと中座 twitter.com/sunamajiri/sta... を挟んで、さらに「その先」までいってみましょう。@BeTakada (哲学では)先が見えた。
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posted at 22:21:38
この形式的限界は沈黙のようなことだが、それを形式的可能性と認識できないこと。この事と、先程のデリダがハイデガーの第三形式、何となく退屈であること、あるいは閑暇という根本気分を形式と受け止められていない、という問題があるのでしょう。そういう話の方向性=現象です。@BeTakada pic.twitter.com/RYHR6jiYgT
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posted at 22:28:29
東 bit.ly/2icFmvb を介して、水木のゲーデル論 bit.ly/2hPpXUS (PMを告示とする数学者のG解釈は自然数しか導出しない通俗性であり、解釈学的循環とならずに、無限後退する)から(続く) @BeTakada
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posted at 22:55:04
(続き)齋藤元基氏の形式的告示 bit.ly/2iKRwdQ (デリダは根本気分という告示=形式を受け取ったか)を、接合して話してみたのだが、形式性、つまり可能性=現象という形式が何たるかが、よくわかるはず。@BeTakada
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posted at 22:55:49