大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月19日(木)
ハイデガーのカント書というのは、尊敬論なので、なぜ日本人が、科学的になればなるほど、リスペクトを欠くような不安のドン底に落ち込むのか、という話題なんだけどね。 pic.twitter.com/blu6KQOTd3
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posted at 03:43:14
あとで再話するが、ハイデガーはカントによるコペルニクス的転回は、従来考えられていたような宗教を科学に認識論的転回することではなく、道徳的転回、つまりエッチしたくて何が悪い、という無意識(感性的理性)の負い目を払拭することだった、と言いたいわけなのだが・・・・。
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posted at 20:34:02
日本は極度に不老不死が高度化した。それはハイデガーの言う意味でカントのコペルニクス的転回を読めなかったからだ。コペルニクス的転回とは科学的認識のことではなく、超感性にとっては無意識的抑圧とされる、性的欲求に負い目を抱かないことなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 21:23:28
ハイデガーは死ねないこと、不死を語りの負い目=悪だと哲学したのだが、日本人は仏像が釈迦の老後であるためか、いつまでも歳をとらず不老不死のセックスレス社会のようになってしまった。これはハイデガーが懸念した最悪の事態なのだ。
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posted at 22:01:09
サザエさんは無時間そのものだ。私が幼児の頃から、波平もカツオもタラちゃんも、歳をとらない。この歳を取らない、という日本の病がどこからきたのか。ハイデガーは近さの話をする、サザエさんが日本では国民文学的な近さだ。そしてサザエさんは不老=無時間的なのだ。
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posted at 22:02:18
それはハイデガーの言う意味でカントのコペルニクス的転回を読めなかった負い目だろう。コペルニクス的転回とは、宗教を科学にする認識論的転回=超感性ではなく、超感性からは無意識とされる、感性的理性の負い目を払拭することにこそあるからだ。
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posted at 22:05:54
これは、科学的認識からは性的な抑圧とされる無意識だが、そうした科学的認識自体が負い目の産物だ、というコペルニクス的転回なのだろう。そして、もしそうした負い目から近さが語られると、サザエさん的な不老の無時間が語られることになる。
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posted at 22:07:07
しかし、それも子供とは悟らないもの、悟りとは釈迦の老後、と表象=仏像化されたことへの負い目でしかない。日本人が不老化するのは、こうした悟りへの負い目ゆえだが、それは性的な負い目といってもよいだろう。こうして日本人は不死化した。togetter.com/li/1072175
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posted at 22:09:13
ハイデガーの近さとは、デカルトの自我、つまり国民国家など仮象だというものだ。仮象であるデカルト的自我を時間論すると、科学的認識=超自我が生じてしまうのだが、超自我=感性からは、カントの言う感性的理性、つまりコペルニクス的転回が抑圧されてしまうのだ。
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posted at 22:31:24
このように、ハイデガーは国民国家、デカルト的自我、純粋理性、科学的認識、超感性、超自我は、カントのコペルニクス的転回、感性的理性、超越論的構想力、時間からは、近いどころか、程遠い、と転回するのだ。
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posted at 22:40:46
語れないことは語るな、という格律(デカルト以来の汝語りの自我)が生じたのも、単に時間は語れるが、不老不死に繋がるような無時間は、国民国家と同様に仮象であり、語ることができない、ということでしかない。人間は語ることのできる時間だけを語っているしかない。
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posted at 23:18:53
デカルトの自我というのは、二人称である汝に向かう、余計なお世話を語る自意識過剰な自我だ、というだけだ。二人称であるあなたには愛ぐらいしか語り聞かせられない、というにもかかわらずだ。ハイデガーは愛以外を語るデカルトを、近さではないと批判するところから始めたのだ。
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posted at 23:22:27
デカルトの自我というのは、「われわれ」という哲学にとっての真理共同体に対する、個人主義の発見のような話だ。しかし、哲学がそもそも真理前提共同体に対する願望であるのだから、仮に個人になった私といえども、同じく個人のあなたに対する時は、愛以外を語れば虚偽というだけだ。
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posted at 23:26:56
かつて作者は死んだと言われた。おそらく神が死ぬより甚大なのだが、それよりも甚大なことがある、それは読者が死ぬことなのだ。読者にデカルト的な個人を強いるということ、それほど酷なことが他にあるだろうか?
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posted at 23:32:35