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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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Favolog ホーム » @sunamajiri » 2017年01月20日
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2017年01月20日(金)

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

デカルトやカントを、科学と宗教の二文法という認識論へと矮小化すると、現実=世界内存在でなくなるよ、というのがハイデガーだが、あの語り口に辟易しているドイツ人が多いからね。エンデは実作家なのに、その二文法を作品外的に語りすぎるから惜しい。@BeTakada pic.twitter.com/qPf8hpzwTm

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posted at 02:32:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

科学的というと味気ない無機質な、というイメージが語られるからね。それでいきおい、科学的か否かに気を取られてしまうと、前近代だ、というのが現代文の先生の教え twitter.com/sunamajiri/sta... なのだが、どうしてもイメージ(先入見)だけで捉えてしまう。@BeTakada

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posted at 02:38:11

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

デカルト以来の個人主義というのは、汝に愛を語れる我になった、という程度のことだからね。それを科学か宗教かとか、科学は質のない無機質だ、とかイメージで語ると、語りとして弱いのよ。エンデは愛ありきで語ってるけどね。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 02:43:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

要は二分法とは何か、なぜ二元論化しなければならなかったのか、という話です。科学と宗教とかいうなら、それこそカントの質と量に戻るしかない。しかしさらに深い、感性と悟性は、古来、個別と一般という二分法で、どこにも心身二元論など語られていないではないか、とかね。@BeTakada

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posted at 02:45:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

ハイデガーがカント解釈で悪戦苦闘しているのは、デカルトやカントを心身二元論と誤解したのはなぜか?という一点です。カント自身にとっても感性と悟性は何ら二元論ではない。つまり個別と一般を綜合する分析をしているだけで、どこにも心身二元論などない。@BeTakada

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posted at 02:53:58

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

思う我と存在する我の分裂が通俗的に心身二元論的になると、科学だ宗教だと発狂的になるが、それ以上に厄介なデカルトの思うだけの我と、考える我の自我分裂 twitter.com/sunamajiri/sta... で、これもカントは一元論で捉えていた、というのがハイデガーですね。@BeTakada

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posted at 03:13:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

それがデカルトは漠然と思考するだけで、神に縋るが(神観念要請)、カントの観念論批判においては、厳然と時間が思考されているので我は存在する、というような論旨ですね。もはや神という観念が不要になったわけです。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 03:26:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

要はこうした厳密な思考が方法化されていなければ、漠然と心身二元論に陥るしかない。だがカントには厳密な思考があり、それは一元論だ、とハイデガーは解釈していくのです。大体、ゲーデル問題以後に、意識のハードプロブレムなど、誤問であるに過ぎない。@BeTakada

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posted at 03:28:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

さて、もう一度鈴木英明のカント書論 bit.ly/2jgQbNp twitter.com/sunamajiri/sta... から、ハイデガーのカント書の枢軸に肉薄してみましょう。@BeTakada

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posted at 03:31:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

鈴木英明カント書論 bit.ly/2jgQbNp の要諦は、悟性=一般と感性=個別という二分法に引き裂いたものが、ハイデガーが批判したカントの不安(退却)であり、また一般と個別を統合する構想力が、戦後アメリカの比較文学的実践だというものだ。@BeTakada

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posted at 03:31:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

このように引き裂かれているのは心身ではなく、個別と一般であり、鈴木英明が引き合いに出すのは、カッシーラーがハイデガーに対する書評で批判した、カント書第31節のカントの「感性的理性」GA3-173の箇所です。bit.ly/2jobT2g @BeTakada pic.twitter.com/r97pXgPTNU

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posted at 03:49:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

昨晩、この部分を再検証していて、そのノートは昨夜ツイートしたとおりなので、そこから再話してみましょう。bit.ly/2j9CgYx @BeTakada

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posted at 03:52:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

コペルニクス的転回というと、一般には新カント派の捉えた、科学的認識のことを指し、またカッシーラーはその科学的認識で文化哲学が可能だと、ハイデガーに反論しているのだが、そのカッシーラーが躓いているカントの「感性的理性」とは何か。@BeTakada

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posted at 03:58:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

感性的理性というのは、いうなれば、科学的認識がいうところの無意識、あるいは科学的認識にとっての無意識のようなもので、ここでは、科学的認識は超感性なのだから、超感性と、非超感性である感性的理性という発問がなされていると言っても良い。@BeTakada

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posted at 04:00:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

コペルニクス的転回を科学的認識とすることでは取り溢れ抑圧されてしまうもの、まさに科学的認識から見れば無意識とよべるもの。そのもののほうがじつは科学的認識をもたらす当のものだ、ということにカントが気づいてしまったのだ、というのがハイデガーの言い分です。@BeTakada

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posted at 04:05:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

新カント派のように、カントのコペルニクス的転回を、単なる科学的認識としてしまうと、科学的認識をもたらす当のものは無意識化されてしまい、フロイトではないがオイディプス・コンプレックス、つまり神を原因とした科学的認識と歪めかねない、とハイデガーは言いたいのでしょう。@BeTakada

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posted at 04:14:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

ハイデガーの転回というのは、こうした新カント派的な転回観、つまりカントを科学的認識とすることでオイディプス・コンプレックスを孕むこと、そこからの転回だというのが、私の見立てです。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 04:16:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

カントの感性的理性を切り捨てるのが、科学的認識という新カント派のカント観だというのが、ハイデガーの批判だとすると、科学的認識では無意識化、つまりオイディプス化される原因論を孕む、というのが私の見立てで、それを覆すものをハイデガーは時間だと言い出すのです。@BeTakada

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posted at 04:20:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

カントの転回を科学的認識=超感性とすると、時間=感性的理性は無意識化(議論が抑圧するもの)となる。それに対してハイデガーの転回は、そうしたオイディプス・コンプレックス=神によらずとも、文化解釈の可能性がある、という話なのだ、というのが私の見立てです。@BeTakada

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posted at 04:21:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

ここまで来ると、冒頭のエンデに戻れる。つまり、科学的な無味乾燥では、語れないものが孕まれてしまったのです。しかし、カント自身は、その語れないものを、一旦は時間=構想力として語った、というのがハイデガーの超越論的図式論=カント書なのでしょう。@BeTakada

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posted at 04:25:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

科学が無味乾燥というイメージ(形象)はあながち間違いではないが、科学が取り零すものをフロイトのように無意識と抑圧すると、オイディプス=デカルトの神を要請してしまう。しかしそれを第一原因ではなく時間に置き換えたら、という図式形象をカント書は語ったのです。@BeTakada

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posted at 04:31:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

カッシーラーの科学的文化哲学を批判するハイデガーという構図は、最近ではカルスタのように、文化から社会までを科学的に分析する無味乾燥を批判する先駆です。日本のポモが、カントにまでオイディプス・コンプレックスを語る羽目に陥ったのは、私が常々批判しているとおりです。@BeTakada

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posted at 04:55:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

それを無意識(オイディプス)に抑圧しないこと。つまりカントやデカルトの議論を、心身二元論と誤読すれば沈黙は当然だ。それこそが語りの頽落であり、コペルニクス的転回とは文化を科学化する蒙昧な独断から、覚醒するようなことなのです。@BeTakada

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posted at 05:01:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

デリダの動物論的ハイデガー批判がこれ。ハイデガーは、動物は選択できる世界が貧しいので、エッチする他者に開かれているという豊かさを語っただけだが、デリダはハイデガーの動物の貧しさという言葉に躓き、価値の優劣の話に終始し、他者に出会えない。

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posted at 22:34:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月20日

それは如実に、進学校と教育困難校という貧しい二分法では、他者に出会えない非リア充を量産するだけで、教育はあらゆる二元論という貧しい思考を乗り越えるためにこそ目的づけられている、という議論だともいえる。世界を選択肢と思うと世界に出会えない。

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posted at 22:43:13

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