大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月31日(火)
先日のまとめ togetter.com/li/1075336 はそれ自体難読になってしまったが、端的には、一般名詞としての我には、固有名詞としての存在は何ら属していない。悟性と感性は各々に別の根があるのではない。両者には共通の、つまり一般と個別ではない、他の根がある、という話だ。
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posted at 16:20:39
ついでに、このハーバードカント学の新刊を買ってきたい。新刊だから街の本屋にあるだろう。(^-^)/ カント哲学の奇妙な歪み――『純粋理性批判』を読む (岩波現代全書) 冨田 恭彦 www.amazon.co.jp/dp/400029198X/...
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posted at 16:30:03
「近代哲学はカントの認識論で素朴な経験主義を脱し、自然科学から自立したという理解は本当だろうか? 哲学史的事情を踏まえるなら、カントの哲学は自然科学を形而上学によって基礎づけたのではなく、自然科学を基盤としてそれに形而上学の装いを与えただけではなかったか。」
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posted at 16:30:41
この自然科学の形而上学化というのは、冨田恭彦氏のハーバードカント学、つまりロック的カントの集大成だろうか。ハイデガーのカント書以後の「全体としての形而上学」を度外視する一つの営為になってそうだが、またしても「仮象としての形而上学」になっていなければよいが。
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posted at 18:34:50
先日のまとめは、ハイデガーが「仮象としての形而上学」=「存在者の全体(に対する無限遠点)」から、「全体における存在者」に転回することで得られる「全体としての形而上学」の話だった。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 18:36:35
つまり、「自然科学の形而上学化」からは仮象や無意識として取り零す《形而上学の全体》からしか、自然科学=《全体における存在者》が可能にならない、という話だが、最近のハーバードカント学も、その問題地平だけになってきていると見える。
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posted at 18:41:21
今月は《形而上学の全体》をめぐる、一般向け哲学解説書の新刊ラッシュのようだ。ほかに、認識論と存在論の違いを一般向け解説した新刊が昨日出ていた。だいたい、なりを潜めていた唯物論とか、左右の旧式の対立が顕在化したこと自体、形而上学の全体を見失ったというだけだろう。
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posted at 18:52:22
奇しくも、今月の私の徒然をまとめる togetter.com/li/1075336 と、存在者の全体(仮象としての形而上学=唯物論)→全体としての形而上学→全体における存在者と向かった。
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posted at 18:59:58
それは、ハイデガーが《全体における存在者》を視点とすることによって、《存在者の全体》という《仮象としての唯物論=形而上学》を一蹴し、《全体としての形而上学》を語ったことへの反動=読解だったからなのだが。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 19:05:02
端的に、《現》というのは、唯物論者の我々の言う《現物》 twitter.com/sunamajiri/sta... のことではない。そういう我々が《現》であるかどうかは、甚だ疑わしい。
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posted at 19:16:09
近刊、もう一冊はこれだね。twitter.com/Philo_Shinkan/... 最近地味に哲学良書が陸続とてきてるんだろうな。柄谷みたいな文芸屋さんが終焉してくれたおかげで。
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posted at 23:14:19
正直、ハイデガーの講義録は、しつこいぐらいに親切なので、それを読んでいれば、どんなバカでも、何の話をしているのか皆目見当がついてしまうはずだが、一番難しいのは、それを一般向けに一言でも紹介する時に混入する雑念、先入観の方。これを払拭するのが容易ではない。それでみんな苦労している。
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posted at 23:17:21
かつての戦後、つまり文芸屋が席巻した戦後日本は、小説の三島にしてからがそうであったように、そうした雑念だけが成分だったと言えなくもないが、そうした雑念をどう綺麗に取り除くか。それが最近洗練されてきているんだと思う。
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posted at 23:18:46
一言で言えば、togetter.com/li/1075336 の趣旨のように、存在論を認識論と転倒し、二元論をアプリオリのように語ってしまう。そうしたことが戦前の日本では払拭されていたにも拘らず、戦後日本ではそれが鈍化した。その鈍化が限界に達しただけだろう。
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posted at 23:27:30
平和ボケという鈍化に限界があったように、戦前、認識論への転倒など払拭されていたにもかかわらず、戦後に鈍化したもの。そうした戦後的なものどもが、近年のハイデガーの全集読みではないが、すべて払拭され終焉してしまった。それが日本の戦後の文芸の終焉だ。雑念がなくなり非常にスッキリだ。
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posted at 23:32:21
かつて、ルネッサンスといえば、文芸復興だったのだが、いまやむしろ、文芸からの復興のほうが甚大だ。文芸がかき混ぜ、二元論や認識論や無意識という、雑念そのものにしてしまったもの。それらが綺麗さっぱり、ゴミ箱にいれられること。これほど痛快なことはないではないか?
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posted at 23:34:46
勝手に終焉した日本の戦後文芸。それは、小林秀雄のインテリ批判が、ベルクソンのアインシュタイン批判を批判する営みに結実するはずだった。しかしハイデガーのように安々とはできなかった。なにせ彼の批判するインテリというのは、単なる唯物論者だったからだろう。そうやって文芸は終わった。
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posted at 23:42:05