九十九屋さんた(さかなや)
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2011年02月09日(水)
ヒーロー・ストーリー、ヒーローマガジン、新聞連載コミック、パルプスペオペとのコラボ、アメコミ形式雑誌、大戦とパルプの没落、アメコミへのSF人材流入……。
しまった、大戦直後の映画、初期のTVにおけるスペオペ、ペーパーバックの隆盛と内容のハイブロー化、単行本化を前提とした雑誌
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posted at 23:07:33
そして『銀英伝』。「レンズマン」と『三国演義(三国志)』を並べれば、どの2つに親和性があるかはわかってくる。そして、この頃になると冒険系をメインとする若者向けのSF市場の存在が明白となった。中身こそ別物になっているがこの頃形成されたインフラはラノベ時代も基本的には変わっていない。
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posted at 23:01:00
高千穂遥にはどうやら日本的スペースオペラ発展についてのかなり明確なヴィジョンがあったようだ。しかし、それはわれわれ読者にとっては幸せな形で裏切られる。1979年、「機動戦士ガンダム」。いくらはげしいアクションありとはいえ、これは「クラジョー」ラインのスペオペとは真逆の作品である。
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posted at 22:55:15
もちろん、80年代の初めには、SFにおいても「銀河英雄伝説」のようなノベルス形式の隆盛がおとずれる。二つの出版形式の間のせめぎあいはいまだに終わっていない。
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posted at 22:51:45
野田昌宏氏を通じてスペオペの楽しさを知った男が、スペースオペラの日本化と復興にとりかかった。言わずとしれた高千穂遥の「クラッシャー・ジョー」である。そして、この時の出版形態が「ソノラマ文庫」という形式だったことは、はるかのちのラノベにまで影響を与える。
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posted at 22:49:06
そのつながりははるかのちまでつづく。『スターウォーズ』小説版にハミルトンやリー・ブラケットの名がからむのは、ハリウッドにおけるこのSFコネクションのゆえだ。で、皮肉なのは、アメリカでそうした冒険SF、スペオペ復興の動きが進んでいたとき、
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posted at 22:45:20
いや、新たにまかされた「スーパーマン」や「バットマン」の脚本担当に、ハミルトンを筆頭とする冒険系の作家を投入した。50年代、中興期のDCは、30年代からの流れをくむSF作家たち、とりわけスペオペへの親和性を持つ作家たちによって支えられたのだ。
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posted at 22:39:03
そして、大戦のさなかから終戦直後にかけて、パルプマガジンの市場は崩壊同然に縮小し、コミック・ストリップスの全盛期がおとずれる。戦地から帰還したワイジンガーもDCコミックに移籍し、「キャプテン・フューチャー」は存在意義を失った。ついに古く懐かしき宇宙活劇の時代は終わったのか?
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posted at 22:34:46
ほぼ同じ時期、アメコミに対抗するかのように刊行されたヒーロー・マガジンがあった。原作エドモンド・ハミルトンだが一部はほかの作家がうけおった。まるでアメコミのように。「キャプテン・フューチャー」はしかし、難問に直面する。時は大戦をむかえ、編集者モート・ワイジンガーが戦地にむかう。
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posted at 22:30:50
だが、のちのコミックの歴史にとって重要なのは、SFファンが作り出し、売り払ってしまった作品「スーパーマン」だ。新聞連載として出発した「スーパーマン」は1938年、雑誌形式へと姿を変え、月刊、40数頁というアメコミの体裁がととのえられる。お手本はヒーロー・マガジンだったのか?
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posted at 22:25:29
謝ってから弁解すると未練がましく映る。弁解してから謝ると卑怯に見える。どっちにしろ、軽蔑を買う。謝るなら後にも先にも弁解してはいけない。謝ったら後は潔く黙して仕事で成果を出す。謝ったことが大きな信用となって返ってくる。
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posted at 17:00:20
非公開
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我々ヤクザなオタク業界での将来の自分の姿を知りたいなら、10歳ぐらい年上の同業者を見ると分かる。その下にしか行けないと考える。すると、今なにをしなければならないかが分かる。
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posted at 08:46:38