blueday
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2012年01月15日(日)
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
私は、福田氏の信者でありD.H.ロレンスの信者であるので、活き活きとした生を信奉し、「死と再生の儀式」としての藝術を信奉するから、死んだ規則であり非人間的な官僚的規則である「現代表記」は絶對に認められない。
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posted at 04:37:41
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「現代表記」と云ふ物も所詮は現代人の「合理的」發想から作られたものであり、甚だしく非人間的であると見て、それで福田恆存は徹底抗戰を誓つたのであり、實際、「現代表記」支持者からの攻撃は常に人間味を缺いたもので、それで福田氏は態度をますます硬化させたわけだ。
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posted at 04:35:02
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
かつての人間が活き活きとした生を謳歌し得たのに對し、近代以來の文明社會の人間が死んだやうな生を送らねばならない事になつてゐるのをD.H.ロレンスは憎んで、それが最終的に肉體的生=性の肯定へと至つたのだけれども、福田恆存の發想はロレンスのさうした思想に直結してゐる。
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posted at 04:32:15
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
福田氏の戲曲「解つてたまるか!」も、素直に讀む・觀る許りでなく、D.H.ロレンスの發想が根柢にある事を理解して鑑賞する必要がある。ロレンスの現代文明批判が「解つてたまるか!」にも強烈に反映してゐる事を、福田氏が「全集」の覺書に書いてゐる。
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posted at 04:29:48
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
四季を實感する事は福田氏が極めて重視した事であり、それが戰後の「国民の祝日」を批判する理由となつた。
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posted at 04:26:06
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「死と再生の儀式」こそが人間の生き甲斐にとつて最も重要なものである、と云ふ發想は、福田恆存の思想の根幹にある。福田氏が演劇に向かつた理由であるが、それだけではない。
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posted at 04:24:45
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
自ら火に飛込んで死に、灰の中から再生するフェニックスを、D.H.ロレンスは大層好んだと云ふ話である。
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posted at 04:22:16
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
觀客は、劇の主人公が自身に成代つて死ぬ事でカタルシスを得るが、ギリシャでは悲劇の後、サテュロス劇と呼ばれる狂喜亂舞の舞踊劇が附隨してゐて、觀客も卷込んで再生を演じたのだと福田恆存。
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posted at 04:20:31
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「藝術とは何か」ではない「劇と生活」。玉川大学出版部から出た『演劇入門』の冒頭に入つてゐる文章。
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posted at 04:18:25
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
ギリシャの演劇は、春夏秋から冬を經て死を迎へた世界が春になつて再生する樣を人間が再現したものである――福田恆存は「藝術とは何か」等でそのやうな説明を行つてゐる。
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posted at 04:13:21
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
物語の圓環構造については、ギリシャの演劇を通して福田恆存が述べた四季の循環=死と甦りの人間による再現と云ふ發想が裏打ち的に存在する。
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posted at 04:11:21
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
伏線の展開とその囘收について理論化するには、サルトルの藝術觀が大いに役立つと思ふ。
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posted at 04:08:06
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
藝術は自分で自分を肯定する物である、と云ふ見方が、サルトルの『嘔吐』に示されてゐる。俺の藝術觀にはその影響が極めて強い。
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posted at 04:06:55
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
自己だけで完結する事を考へたのが實存主義者のサルトル。『嘔吐』はさう讀めと福田恆存が西歐作家論で書いてゐる。
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posted at 04:05:43
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
價値觀・イデオロギーと云ふ奴は、宗教の信念と同じ、或はそれ以上に非道い勘違ひだ。
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posted at 04:04:31
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
現代人は勘違ひが大嫌ひだから宗教の勘違ひを排斥するが、その結果として無神論・無宗教に行つても結局價値觀からは逃れられない。さうなると勘違ひの板挾みになつてますます苦しくなるのだが、そもそも「勘違ひ」と云ふ見方をしたのがまづかつたのでないか。
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posted at 04:03:46
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
宗教も勘違ひだらうと言はれるわけだが、よく出來た勘違ひの方法であるのであつて、無神論にをさをさ劣らない。生と死に希望を殘すだけ、寧ろ利點があるとすら言へる。
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posted at 04:01:54
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
神樣がゐれば神樣に肯定して貰ふ事を期待できる。けれども無神論では自分で自分を肯定するしかない。自分で自分を支へなければならないが、そんなのは無理。だから、無神論と言つてゐる人は、勘違ひで安心してゐる人か、よつぽど傲慢な人であるか、そのどつちかであるに決つてゐる。
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posted at 03:59:54
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
人はその人以外の誰かから認められるから價値がある事になるのであり、自分で自分を褒めても何にもならない。人間は人間以外の何者か――人間を超える者――から認められるから存在する意味を持つ。
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posted at 03:58:07
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
日本人に一般的なこの手の無神論は、生それ自體の價値を絶對化する一方、生の無價値から生の否定へと突進む危險がある。
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posted at 03:55:14
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「どうせ死ぬんだから生きている間だけ幸福でいたい」と云ふ發想は、「どうせ死ぬんだから今死んでもいいんだよな」と云ふ發想を誘發する。
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posted at 03:53:17
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「どうせ死ぬんだから」と云ふ發想は生禮讚の發想であるが、即座に自己禮讚の發想である。が、この手の自己中心的の發想はニヒリズムであり、生禮讚の發想の筈が即座に生の無價値の發想に轉化する危險を孕む。
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posted at 03:51:50
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「悪いものがいくら増えようが知ったこっちゃない」「俺が生きている間だけ良ければそれでいいんだ」式の發想がまた、今の時代には支配的である事も大問題。
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posted at 03:50:35
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
個人の才能と云ふ物もあるから、良いものが消滅するわけでもないが、傳統の力を削ぎに削ぎまくれば、惡いものの増える事は間違ひない。
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posted at 03:47:22
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
新しいものを禮讚して古いものを古いからと言つて頭から否定する――さう云ふ態度が日本では横行してゐるが、それでは本當に新しいものなんて出て來やしないだらう、況してや良いものなんてものは出て來る筈もない。しかし、それでは困るのである。
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posted at 03:46:26
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「言葉は伝わればいいんだよ」と云ふ發想が今は横行してゐるけれども、良い言葉が生み出され、後世に傳へられて行く事も、同時代で言葉が消費されるのと同じかそれ以上に大事。
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posted at 03:44:55
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
T.S.エリオットが言つてゐるのだけれども、或時代の全く新しい詩であつても、その最良の部分は、前の時代の詩の最良の部分である。個人の才能が新しいものを生み出すにしても、良いものは結局傳統的な部分である。
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posted at 03:43:05
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「新かな」の問題點として、「過去のものを否定する事を助長する」「既成事實を批判的に見る事を阻害する」と云ふ事が擧げられる。最終的に、他者を理解しない態度が當り前になり、自分が一番偉い、と平氣で言ふ傲慢に到達する。
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posted at 03:07:59
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
非常に厄介な話なのだけれども、よくよく考へてみると、「現代仮名遣い」の立場が自己を正當化するのは、實は極めて難しい。ところが一般に「現代仮名遣い」は「正しい」とされてゐる。これが何を結果するかと言へば、「既成事實だから正しいと信じておく」と云ふ思考停止である。
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posted at 03:06:14
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
全ての「アンチ正かな」「新かな的なもの支持者」の人が、最終的には「正かなづかひへの嘲笑」に至る。ところが、嘲笑と云ふ態度は、明かに、相手を小馬鹿にしたもので、「自分達の方が偉い」と云ふ上から目線のものである。これは相手を理解する態度ではない。
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posted at 03:04:18
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
さうなると、「現代人の間でさえ通じればいいんだよ!」と云ふ強い言ひ方で押し切らう、と云ふ發想が生ずる。ところがこの「強硬な姿勢で威壓して押し切らうとする態度」は、一般に原理主義的と呼ばれるものである。
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posted at 03:02:48
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「新しい表記はコミュニケートするのに便利」と云ふ反論は、「コミュニケート」の意味が曖昧である問題がある。「現代人の間だけで通じる事がコミュニケートが便利と云ふ事である」と云ふ意見は「現代人だけでは閉鎖的である」と云ふ意見に對して説得的でない。
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posted at 03:01:30
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
實際、「新しい・古い」と云ふ觀點から話をしてゐると、「新しいものならば全て良くて例外はないのか」「古いものならば全て良くて例外はないのか」と云ふ泥沼の言爭ひが發生する。當然の事ながら、「新しい・古い」と云ふだけで滿足なわけがなくて、結局「良い・惡い」の問題になる。
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posted at 02:59:51
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
表記それ自體に良し惡しは無い、新しい・古いがあるだけだ、と云ふ意見――しかし「古いものへの反感を懷かせる」と云ふのは、「古いものは惡い」と云ふ價値觀を示唆する事だ。即ち、良し惡しと云ふ價値觀に深く關係する事になるのである。
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posted at 02:57:06
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
最う一つ深刻な状況があつて、「新かな」に慣れた現代人には、歴史的かなづかひの文獻は「読みにくい」と云ふ感情的な反感が發生する――この「古いものへの反感」が發生する事、これが「新かな」の最惡の效能だ。感情を「新かな」は操作するのである。
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posted at 02:54:28
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
逆に、「新かな」しか讀めない人間にとつて、過去の文獻は一切が反古になり仰せてしまつてゐる現状がある。
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posted at 02:53:20
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
「新かな」に從つて――或は、「新かな的」だがさらに出たら目に――書かれた文獻、それが現在、盛に作られてゐる。それらは、將來に亙つて、ずつと讀取り易い文獻であり續けるか。
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posted at 02:52:38
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
歴史的かなづかひが、文法の約束事に基いて定められてゐる以上、後世に傳はつた文獻を讀取るにも、非常に便利である事は、豫測する事が可能である。
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posted at 02:51:06
野嵜健秀/NOZAKI Takehide @nozakitakehide
日本語の文獻が、書かれ、保存されて行く……その際、記述形式が重要である事――過去から現在、そして未來にまで、互換性の高いものである事――即ち、理知的に讀取りやすいものになつてゐる事――歴史的かなづかひである。
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posted at 02:49:45