Twitter APIの仕様変更のため、「いいね」の新規取得を終了いたしました

YoshiakiMuramatsu

@mramats

  • いいね数 4,659/4,237
  • フォロー 338 フォロワー 273 ツイート 1,593
  • Web http://twilog.org/mramats
  • 自己紹介 東北のどこかに在住。元森林生態学専攻。学生時代の研究は切り捨て間伐・枯死木の分解について。ふぁぼ魔。http://favolog.org/mramats
Favolog ホーム » @mramats » 2012年07月15日
並び順 : 新→古 | 古→新

2012年07月15日(日)

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

なるほど今西進化論の問題は政治の問題でもあったんだなあ。

タグ:

posted at 07:40:48

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

たいていの「心的概念の測定」はそうです。結果の原因化。 RT @lawkus: 仮に測定するとしたら、結果をもって「どれだけ正しい努力をしたか」を測定するというようなナンセンスな話になりそうです。

タグ:

posted at 07:51:43

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「素人が勝手に区別してるもの」を「簡単にそんな区別はできない」というのは専門家の大事な仕事だ。

タグ:

posted at 07:54:58

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「学者の正論は暴力」というのは事実だし学者は自戒せねばならないが、およそ「能力」と呼ばれうるものはすべて文脈によっては「暴力」だろうと思う。足が早いのもイケメンなのも料理がうまいのも暴力。

タグ:

posted at 08:06:26

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

これが究極的事実。「婚活」などするから結婚できない。

タグ:

posted at 08:14:59

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

いやむしろ「それを解する者」にとって暴力です。自分は絶対にそのようにはできないものを突きつけられるのだから。 RT @tkyk_insensatez: 同様に、すぐれた芸術もそれを解せぬ者には暴力。

タグ:

posted at 08:24:27

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

そもそもベネフィットとリスクを冷静に判断して相手を選ぶようになったら誰も結婚などしなくなるのが道理。

タグ:

posted at 08:26:05

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

結婚は感情のお仕事であって論理でしようとするとできなくなる。

タグ:

posted at 08:28:30

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

暴力になり得ないようなものは能力ではない。

タグ:

posted at 08:30:50

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

作曲を志す者にとってモーツァルトなんかまさに暴力だと思う。

タグ:

posted at 08:36:26

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

まず「定義」という言葉の定義がいちばん重要。

タグ:

posted at 08:45:41

ystk @lawkus

12年7月15日

興味深いです。厚かましいお願いですが,ご面倒でなければもう少し具体的に教えていただけませんか?何という結果をもって何という要素を測定するという感じで。RT @ynabe39: 「能力」もそうですし「動機」もそうです。どれも「結果」によって測定される。

タグ:

posted at 10:20:30

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@lawkus 能力であれば「実際の達成」によって測られるのはわかりやすいですよね。「動機」も基本的には「その動機を持つ人が一般的にやりそうなことをやったかどうか」で測られます。

タグ:

posted at 10:25:17

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@lawkus 私は心的概念というものそのものが「結果を抽象した概念」なのだと考えています。「やさしい心」というのはやさしい行動をした結果その人に与えられるラベルです。

タグ:

posted at 10:27:05

ystk @lawkus

12年7月15日

元々能力は成果の原因動機は行動の原因と考えられてるので,その方法で確かに測定できるでしょうが,素朴な疑問として,意味あるんですかねそれ。RT @ynabe39: @lawkus 能力であれば「実際の達成」…「動機」も…「その動機を持つ人が一般的にやりそうなことをやったかどうか」

タグ:

posted at 10:28:48

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@lawkus 私は「心的概念を行動の原因と対応するものと考えること自体が間違い」という立場です。

タグ:

posted at 10:30:53

ystk @lawkus

12年7月15日

@ynabe39 なるほど。私が普段考えていることと近いような気がします。そうしたことを書いた心理学の書籍でお薦めのものはありますか?やはり「性格とはなんだったのか」でしょうか。

タグ:

posted at 10:31:28

ystk @lawkus

12年7月15日

@ynabe39 私も専門的なことはわかりませんが近い考えですね。「心に帰属させないと気がすまないのはなぜか」とよく思います。

タグ:

posted at 10:34:43

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@lawkus そこで私は法律の人格主義や責任能力論にすごく疑問を持っちゃうわけです。

タグ:

posted at 10:36:39

ystk @lawkus

12年7月15日

@ynabe39 まああれは一種のフィクションなんじゃないかと疑っていますね私は。しかし知的障害者が何もわからず契約を結んじゃった場合に取り消せたりとか,機能的には役に立ってもいるわけでして。

タグ:

posted at 10:41:22

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@lawkus もちろん「機能」を考えることは重要ですし、普通の人にとっては機能していれば本質はあまり重要ではありません。しかし学者も機能と本質を区別できなかったら問題です。

タグ:

posted at 10:46:21

ystk @lawkus

12年7月15日

@ynabe39 それは仰るとおりです。法律家としては,「法が結果責任主義になってしまうことには強い抵抗を感じるが,今のところ責任を心に帰属させる以外に結果責任主義を避ける方法を思いつかないし,社会にも受け入れられている考え方なので受け入れておく」という感じです。

タグ:

posted at 10:51:17

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 @lawkus 本人のこころを他者が観察するときにはそれ以外にないだろうことは分かりますが、それをもって「こころ」が実在しないという結論は出てこないだろう、と思うのですが、、、?

タグ:

posted at 11:53:57

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena @lawkus 「こころ」の実在不在と心的概念の性質は別の問題ですし実際別に議論されています。

タグ:

posted at 14:46:49

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

定義が明確に定められるのなんて学術用語など「議論のために作られた概念」だけで、日常概念の多くはそれほど明確には定義できないし概念の周縁はおぼろげで常に他の概念と重複しているというのは常識だと思う。たとえば「性格とはなにか」と問うてみればすぐにわかる。

タグ:

posted at 15:02:04

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

ネットで「○○の定義は」と言うことが問われる場合にそれが「言葉の定義を明確にする目的」で問われることは少なくて,多くの場合は「自分は○○ではない」「××は○○ではない」と主張するための手段として定義が問われている。

タグ:

posted at 15:16:38

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@projectionkitp タキオカ君が「○○の定義は」というときには本当に定義を尋ねていることも多いです。そういうことが普通の人と違うのでますます普通の人が怒ります。

タグ:

posted at 15:21:18

斎藤清二 @SaitoSeiji

12年7月15日

@ynabe39 こんにちは。だからこそ、シンプルに「定義を共有した上で議論したいのですが」という、議論の導入としてのアプローチ法が普及してくれればと思います。シンプルに「あなたのいう○○の定義はなんですか?」という議論がが共有できればエネルギーの節約になると思います。

タグ:

posted at 15:24:13

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@SaitoSeiji しかしそれが「シンプルに」可能な「概念」はごく限られるし,日常概念についてそれを行なうことは「議論の範囲を著しく狭める」ことになります。もちろん「定義しよう」というのはその「議論の範囲を狭める」ことが目的なんですけどね。

タグ:

posted at 15:25:45

projectionkit @projectionkitp

12年7月15日

なるほど、先程タピオカさんが、「思いやり」の定義は出来ないと言ったのにご自分で「思いやり」の測定法を仰っていたので矛盾していると思いました。本人に言いたかったですが、ブロックされているので…RT @ynabe39: @projectionkitp タキオカ君が「○○の定義は

タグ:

posted at 15:25:54

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「お前はアホか」「アホの定義を言え」。

タグ:

posted at 15:26:10

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@projectionkitp マジレスですが,語の定義ができなくても測定はできます。心理学ではいくらでもやっていることです。もう少し難しく言うと測定という行為自体が再帰的に語を定義するというか。

タグ:

posted at 15:27:12

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「アホの定義を言え」というのは「いったい俺のどこがアホだというのか,アホなどではないぞ」という意味です。 RT @yu__0306: 大体そういうこと言うやつに限って定義の意味を理解してないっすよね。

タグ:

posted at 15:29:16

斎藤清二 @SaitoSeiji

12年7月15日

@ynabe39 「おまえはアホか?」「そのとおりです。私だけが例外なはずはありません。ところであなたの言う『アホ』と私の考える『あほ』がどのくらい重なっているか、一緒に検討しませんか?」

タグ:

posted at 15:31:50

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

ふつうみんな語の定義などしないで提案していますね。「今日はなにかおいしいものを食べようよ」といわれて「おいしいものとはなにか」と言ったら「食べに行きたくない」という意味。 RT @projectionkitp: では語の定義が出来なくても、その語を使った提案は出来ますね。

タグ:

posted at 15:31:57

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「やっぱりアホだ」。 RT @SaitoSeiji: 「おまえはアホか?」「そのとおりです。私だけが例外なはずはありません。ところであなたの言う『アホ』と私の考える『あほ』がどのくらい重なっているか、一緒に検討しませんか?」

タグ:

posted at 15:32:27

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

たぶん「提案という語の定義の問題」でしょうw。 RT @projectionkitp: 定義出来ない語を使った提案はおかしいという、論調でしたので。

タグ:

posted at 15:33:07

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「誰か来て〜!この人アホですよ〜!」。 RT @SaitoSeiji: 「やっぱりアホだ」「私がアホだという秘密を見抜くとは、あなたはただの『あほ』とは思えません。生きて返すわけにはいきません」

タグ:

posted at 15:37:57

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「アホという言葉」にこだわることが「自分のアホ性を強調する」ことになるのは間違いないなw。

タグ:

posted at 15:39:10

斎藤清二 @SaitoSeiji

12年7月15日

@ynabe39 自分の「アホ性」を受け入れてしまえば、怖いものはありません。

タグ:

posted at 15:42:29

@lastoresorter

12年7月15日

@ynabe39 「あなたはアホです。理由が分からないでしょう?アホだから分からないんです。」と言ったら、相手は反証のしようが無いから一方的に勝てそうな気がします。どうやったらこういう「攻撃」に「反撃」できるでしょうか?

タグ:

posted at 15:42:49

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「まじめに議論したい人」は「議論の対象をできるだけピンポイントに絞りたい」んだよね。議論の対象をピンポイントに絞るためには議論される主要概念に「作業用のピンポイントな定義」を与える必要が生じる。ここで「あくまでも作業用に定義する」という「マナー」が共有できるか。

タグ:

posted at 15:43:08

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@dystopian_cat ぶん殴ればいいので簡単です。昔は学会等でも鉄拳制裁はよくありました。

タグ:

posted at 15:44:06

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@SaitoSeiji 「自分のアホ性の受容」というのはいろんな意味で「特権的な地位」だと思うんですよ。「自分はアホだと受容できること」自体が敵意の対象になり得る。

タグ:

posted at 15:45:10

セノにゃん @ceno_sougou

12年7月15日

私見としては、脱原発はどう足掻いてもこれから10年後20年後にやっと始まる話。今はそのための下準備すらまともにできていない。故に、脱原発と今の原発停止とはまったくの別問題。しかも原発が停止しているからといって事故が起こらないわけじゃない。それを直結させるのはいかにも呪術的な発想。

タグ:

posted at 15:47:24

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「自分が相手を批判することは言論の自由である,相手が自分を批判することは攻撃であり分断である」。

タグ:

posted at 15:47:47

斎藤清二 @SaitoSeiji

12年7月15日

@ynabe39 最近思いついたのは、「○○はAであるという定義」と「○○を非Aとする定義」を並列に明確化してから、「Aであればこうこう」「非Aであればそうそう」と論を勧めて行くという方法ですが、果たして140字のやりとりで可能か?

タグ:

posted at 15:49:43

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ceno_sougou 2年前には「脱原発を目指す」ということもまったく言われていなかったのですから,相対的には「脱原発はすでに始まっている」ように思います。

タグ:

posted at 15:49:51

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@SaitoSeiji 訓練のできている相手とであれば140字でも充分に可能,訓練のできていない相手とは1400字でも難しい。

タグ:

posted at 15:51:28

斎藤清二 @SaitoSeiji

12年7月15日

禿同。今現実に考えているのは、教員採用試験の集団討論などの技術として習得可能かということです。@ynabe39 @SaitoSeiji 訓練のできている相手とであれば140字でも充分に可能,訓練のできていない相手とは1400字でも難しい。

タグ:

posted at 15:54:52

セノにゃん @ceno_sougou

12年7月15日

@ynabe39 定義論になってしまいますが、この文脈においては“脱原発の始まり”は正常に運行している原発を逐次廃炉できるようになる段階を指しています。
今盛んに交わされている議論は、そのための下準備という位置付けです。

タグ:

posted at 15:55:12

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@SaitoSeiji 「アホでないとは自分はアホだと思うこと」「主観的でないとは自分は主観的だと思うこと」とか言いがちなんですがそれだと「自分はアホだと思っているとアホじゃないと思っている自分がアホだと思っているとアホじゃないと…」みたいな無限後退になります。

タグ:

posted at 15:55:46

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ceno_sougou その「下準備」も去年の3月までは始まっていなかった,ということはきちんとみないといけないと思います。原発事故以前から「脱原発の大きな流れ」があったわけではない。

タグ:

posted at 15:57:01

斎藤清二 @SaitoSeiji

12年7月15日

@ynabe39 「アホは自分がアホだと思っていない」ということをある学者が講演会で話したら、目をキラキラさせた14歳の少年がすっくと質問に立って、「先生はご自分のことをアホだと思っておられるのですか?」と尋ねました。

タグ:

posted at 16:01:42

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

どうも「アホであること」と「アホでないこと」は「アホというカテゴリーに入るかどうか」の問題ではなく「アホというカテゴリーに入るか,アホでないというカテゴリーに入るか」の問題であるように見える。

タグ:

posted at 16:03:38

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ustht その「教育の論理」が「暗黙の了解」でうまく回っていて,それを学校の外の社会も基本的に受け入れていた時代が終わっちゃった感じがすごく強いのです。もう「教育の論理」とその根拠を明示して社会の同意を取りつけないといけない感じ。「アカハラ」の問題がその象徴です。

タグ:

posted at 16:08:14

斎藤清二 @SaitoSeiji

12年7月15日

@ynabe39 そのとおりだと思います。よってアホ問題は、アホと非アホの分節設定の問題となり、そもそも全体性をどう分割するかの文節境界の実在性が問われることになり、必然的に全体性の回復(あんたあほやろわてもあほや)へと向う。メデタシメデタシ。

タグ:

posted at 16:10:06

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@SaitoSeiji たしかに結論はそこにしか行き着かないので,アホの定義を問うことはナンセンスということになります。

タグ:

posted at 16:12:55

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 @lawkus ①この文脈でみる限り「やさしい心」は心的概念の一。②別のところでは心的概念は存在しない、とも。③また、別のところでは心的概念を他者が判断するところのラベルである、と。③はラベルとして実在するから②が本人の心中に限定したものである場合のみ矛盾なし。

タグ:

posted at 16:15:09

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

@ynabe39 よくわかります。わたしハラスメント相談員なもので。けれど、警察にできるのは物理的暴力を振るった生徒を拘束するぐらいのことで、物理的暴力抜きの凄惨ないじめはいくらでも可能ですよね

タグ:

posted at 16:15:49

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena @lawkus 「心的概念の性質」として「それが内的実在と対応しない」ということと「内的実在としての心が存在するかどうか」とは最初から別の問題です。

タグ:

posted at 16:17:47

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@123_euglena @ynabe39 @lawkus ①でいう「やさしい心」が③他者によるラベルを表現しているなら、この「やさしい心」が「やさしい行動」の動因になりえないことは自明。なので、ここでは何も言っていないことに等しくないだろうか。

タグ:

posted at 16:18:57

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena それが「結果の原因化」です。心的概念による行動の原因論的説明の多くがそうなっている。そうでないためにはその心的概念が「観察に還元されない意味」を持つ必要がある。20年前の論文→ soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/handle/...

タグ:

posted at 16:21:16

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

どの教室にも一人づつ警官が配備されるというようなことにでもなれば多少はいじめも手控えられるかもしれないけど、そうなると手控えられるのはいじめだけではないですよね

タグ:

posted at 16:22:33

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ustht 「学校教育を行なうために必要なシステム自体がいじめを生み出している」「システム自体がハラスメントの温床になっている」場合に,いじめやハラスメントをなくすためにそのシステムすべてを捨てられるのかというシビアな問題。

タグ:

posted at 16:25:09

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 論文はあとでじっくり読ませて貰いますが、渡邊さんは「結果の原因化」なるものを批判するために「結果の原因化」そのものをツィートしていた、という理解でいいのかな?

タグ:

posted at 16:27:33

やまねこ @yamanekomin

12年7月15日

@ynabe39 定義は、その定義に使った概念の定義は、と相手が言い淀むまで繰り返して、言い淀んだら「そんなあやふやな定義で俺を批判してたのか、勉強して出直して来い」。どんな批判も一蹴できる便利な方法ですね。

タグ:

posted at 16:28:12

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena まず結果の原因化であるものを結果の原因化であると指摘していたということですね。

タグ:

posted at 16:28:34

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「お前はアホか」「アホの定義は」「お前みたいな人間のことだ」。

タグ:

posted at 16:29:29

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

@ynabe39 小中学校の状況を知らないので軽々なことはいえないのですが、それでもやっぱり警察的論理で問題が解決されるとは思えないです。生徒と保護者と教師でなんとかしないといけないのではないかと思うのですが、間違ってますか?

タグ:

posted at 16:30:04

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ustht もちろん私もそう思っているんです。外の世界では犯罪であるようなことでも(とくに生徒の行為については)「警察的論理」とは違う問題解決があるべきだし,じっさいこれまでそれできちんとやってきたわけです。しかしそのことへの社会的同意が壊れつつある。

タグ:

posted at 16:31:46

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

@ynabe39 もちろん警察を含め専門家の示唆は必要だと思いますが、学校外の装置に委ねて解決するものなのでしょうか?

タグ:

posted at 16:32:22

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 なるほど。最初に読んだとき「心的概念」という言葉に???でしたが、それは心理学の学術用語で、他者による本人の心的現象を表すための言葉(ラベル)ということでいいのですね?

タグ:

posted at 16:34:02

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ustht いまのシステムだと「学校の論理の限界」をどのポイントにおくかが難しいように思います。「ここまでは学校の論理で,ここからはそれでは無理」という,もちろん明確な線など引けっこないんですが。

タグ:

posted at 16:34:06

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena 他人に限らないです。心的概念は他者に限らず自分に対しても帰属されます。mental conceptsとかmental constructsという言い方は心理学というより分析哲学の用語ですね。

タグ:

posted at 16:35:35

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ustht それこそいじめやハラスメントを防止するために,生徒には外の世界とまったく同じ権利や自己決定権を与え学校で起きるさまざまな事件についても外の世界とまったく同じ司法的対応を行なう,ということで「学校」は成立するのか?ということです。

タグ:

posted at 16:39:23

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

学校ってもともと学校の中になんらかの治外法権が認められなければ成立しないものなんじゃなかったか。

タグ:

posted at 16:41:01

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

@ynabe39 わかります>社会的同意が壊れ・・・。「学校の論理の限界」は確かにあるとしても、学校としてはまずは、解決できるし解決させてくれと言いつづける以外にないように思います。学校外の社会の支援がなくなりつつあるのがほんとうに厳しいだろうなと心配しています。

タグ:

posted at 16:41:38

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

その「治外法権の範囲」をこれまでのように暗黙にではなく明示的に設定しないといけない時が来た感じがすごく強くしている。

タグ:

posted at 16:42:06

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 自己評価も言葉(ラベル)ですから、納得です。どうも有り難う。

タグ:

posted at 16:44:56

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena ラベルを実体と取り違えるというのは普遍的に起きることです。

タグ:

posted at 16:45:45

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@123_euglena @ynabe39 おっと、でも自己評価の場合は、行動による類推ではなく、内省ではないでしょうか。

タグ:

posted at 16:46:16

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@imfrightened そのへんがなぜか教育学や教育心理学ではきちんと議論されないんですよね。まあ議論しにくいのもわかるんですが。

タグ:

posted at 16:46:26

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

@ynabe39 ハラスメント@大学のことを仕事上いつも考えていますが、「外の世界」と同じにしてはいけないし、そもそも無理なのではないかと思います。具体事例に出会うたびに右に左に揺れるので確信はもてませんが。

タグ:

posted at 16:46:28

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena 自己知覚理論なんかでは自己概念も基本的な材料は自己の行動観察であるとしています。心理学者は(ごく原理的なことを除いて)自己認識と他者への認識にあまり大きな差異を仮定しないですね。これはかなりイデオロギーですが。

タグ:

posted at 16:49:13

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ustht たとえば親子関係において子どもに完全な自己決定権を認めたらどうなるか,親子関係においても普通の人間関係で犯罪になるようなことは全て検挙するようにしたらどうなるか,ということですよね。

タグ:

posted at 16:51:13

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

@ynabe39 そうです。そしてそこにも虐待の問題絡みで警察的に介入するほうがよいという理屈が働いています。

タグ:

posted at 16:54:56

秋葉山 大宝院 @AKBgongen

12年7月15日

松島町の釜神職人さんは色々な神様の掛け軸を蒐集している方でした。写真は廃仏毀釈で廃寺となった塩竈神社の別当の掛け軸、真言宗のお寺だったそうで、今でもお参りしているそうです。 t.co/tg9ZvT8L t.co/potyzVWO

タグ:

posted at 17:00:10

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ustht そういう「司法による解決」を強く訴える人が学校と児童の権利の関係の問題とか親子関係における子どもの権利の問題などについては保守的な立場であることの矛盾が気になります。司法が入ればその人たちの好む「古きよき日本の学校」「古きよき親子関係」は成立しえないんですが。

タグ:

posted at 17:01:01

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 さすがにそれは(少なくとも学者の中では)ないような。ラベル(言葉、認識)と実体(対象)、所在自体が別の場にありますから。ラベルが実体を「完璧に」認識しているというような誤認はあるかと思うのですが。

タグ:

posted at 17:05:39

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

@ynabe39 彼らは、まあ考えなしですから議論はできません。しかし考えなしに引きずられると学校も警察も司法も大混乱です。憂慮しています。絶対専制君主でさえも解決できないことはあるというのに。

タグ:

posted at 17:06:04

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena それが測定における妥当性の問題と直接つながります。

タグ:

posted at 17:09:06

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@ustht 「じゃあどうしたら」という妙案がないことは教育に携わるものとしてほんとうに歯痒いですね。ときどき悲観的になってしまいます。

タグ:

posted at 17:09:53

ushiro teruhito @usrtrt

12年7月15日

@ynabe39 警察が生徒300人に事情聴取というようなニュースを見ると細胞がいくつか死んだような感覚がします。しかしとりあえず現場を成り立たせていくしかないのでしょう。

タグ:

posted at 17:15:20

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

教育や学問の成立に必要な「治外法権」は間違いなくありますが,それが「何についてどこまで」なのかについて以前はあったような社会的同意がなくなっていると思います。それを議論しなおそうよ,というのが以前からの私の主張なのですが,難しいのは確かです。@todaakira

タグ:

posted at 17:19:03

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 少なくとも心理テストみたいな測定にどの程度の妥当性があるのか疑問の余地が極めて高いでしょう?とすると、それには殆ど学術的な妥当性がない、とも言えちゃうわけで(というか、測定に妥当性のない実験、観察は自然系では門前払い)、、渡邊さんのスタンスはこのあたりかな?

タグ:

posted at 17:20:37

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena 構成概念の測定,という意味では心理学に限らず物理学的測定にだって同様の問題はあります。それに対するひとつの答えがブリッジマンの操作主義(操作的定義)なのですが,ブリッジマンの著書を最初に日本語訳したのは物理学者ではなく心理学者でした。

タグ:

posted at 17:22:31

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 「心理学における構成概念と説明」(1995)bit.ly/YW1995をざっと一読しました。多くの心理学者は状況依存的な「傾性概念」にしか過ぎないかもしれないのに説明力のある「理論的構成概念」を測定した気になっている、というのが結論かな(続く)。

タグ:

posted at 18:04:25

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@123_euglena @ynabe39 生物学実験の場合、ご存知のように、「状況」を厳密にコントロールし、、、というところから測定が可能になるし、「測定」も量的な測定限界という限定つきで妥当性が担保されていて、、細胞は「こころ」より複雑だろうと思いますが研究は単純です。

タグ:

posted at 18:10:37

HIRO MIZUNO @hiromichimizuno

12年7月15日

池田信夫氏(経済学者)と大杉教授(法学者)のやり取りを見ていても、どっちもどっちというか、日本って本当に専門分野への相互リスペクトのない国だなあと思う。だから専門分野も育たないし、もっと困ったことには、いろいろな分野の専門家を集めた議論がかみ合わない。

タグ:

posted at 18:10:47

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena だから「実験」が「もっともすぐれた研究方法」とされるわけですが動物や人間を対象とする研究では今度は「実験の生態学的妥当性」が問題になります。「実験室で起きていることがほんとうに現実の正当な代表なのか」ということですね。

タグ:

posted at 18:12:52

虞蒙もしくは風船猫@銭湯民族 @gumou

12年7月15日

@dystopian_cat @ynabe39 「アホである私に分かるように説明してください。出来ないのなら、あなたもアホであると認定します。」というのはどうですか?
twitter.com/dystopian_cat/...

タグ:

posted at 18:19:43

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 生物学の場合は、誰もが対象生物の生物的自然の一断面を研究しているわけです。それがその生物の総合像などとは誰も考えない。心理学も人間の心的プロセスの総合を理解するのが究極の目的だろうけれど、、、一断面の研究では満足できない、とか?いきなりの総合的予測力は無理では?

タグ:

posted at 18:23:10

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena 心理学の対象が「人間の心的プロセス」だというのはすごく限定的な考え方ですね。心理学者の6割くらいは「心的プロセス」については研究していないと思います。

タグ:

posted at 18:30:27

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena 「生物学」だとそれでいいのですが「動物学」だったり「畜産学」だとそうもいかなくなります。要素の総合としての「個体」に興味が向くようになるからですね。理学部でも生態学の人なんかが「文系っぽい雰囲気になる」のもそのためだと思います。

タグ:

posted at 18:31:56

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena 私が畜大で最初に指導した卒論の学生が「自分は馬の骨格とか馬の生殖とか馬の飼料とかの研究ではなく馬そのものの研究がしたい」といって私のところにきたことを思い出しました。「自然科学じゃそれは無理だよ」という話をしましたね。

タグ:

posted at 18:34:51

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 生態学でも、さまざまな「切り口」があって、研究としてはその「切り口」のうちの一つしかできていないだろう、と思います。

タグ:

posted at 18:35:28

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena 心理学者(や文系の研究者)はやはり「要素に還元された人間」ではなくて「統合されたシステムとしての個人とその集合」を研究したいのだと思います。方法論的にいくら科学になってもそれは変わらない。

タグ:

posted at 18:37:23

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 すみません。ここは、心理学に対する私の願望表現が含まれていたかもしれません。

タグ:

posted at 18:37:25

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 ここはとてもよく理解できるんですけど。問題は、そのような方法が可能か、、、妥当で可能な方法を見つけ出さないと、というところで逍遥してませんか?

タグ:

posted at 18:42:31

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena いま現在自然科学がそうであるような意味での「科学」が「個人」を扱うのは無理だと思います。ですから私は人文学が「科学になる」必要はないと考えています。

タグ:

posted at 18:44:06

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 より具体的に言えば、例えば「理論的構成概念」ね。少なくとも1995年までの段階では誰もが認めざるをえない「それ」はないわけで。それをどのようにしたら構築できるのか、という展望はあるのでしょうか?

タグ:

posted at 18:49:21

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena それは「性格とはなんだったのか」に詳しく書きました。先生に本あげてなかったでしたか。

タグ:

posted at 18:51:43

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

@123_euglena そこで「科学をめざす心理学」と「とくに科学をめざさない心理学」に分かれます。研究テーマごとに両方が可能。本は学内便で送ります。

タグ:

posted at 18:55:29

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 可能である、とは心強い言葉です。期待しています。

タグ:

posted at 18:58:52

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「言いたいことはわかるがその言い方では誤解される」と言ってくる人がいちばん誤解している。

タグ:

posted at 19:04:56

後藤 健 @123_euglena

12年7月15日

@ynabe39 「可能性」に現実性が推察できれば(展望が見えれば)挑戦する人はいるでしょうけど。その線でやってる学者はどれほどいますか?

タグ:

posted at 19:40:33

非公開

タグ:

posted at xx:xx:xx

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「人をバカという人がバカ」というのはツイッターではほんとに痛感するなあ。

タグ:

posted at 20:57:12

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

利権とは自分の気に入らない経済活動のことである。

タグ:

posted at 21:23:07

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

ツイッターでは「最初はわりとまともなことを言ってた人がどんどんおかしくなる」のを何度も目撃するなあ。やっぱり俺みたいに最初からおかしいことが大事。

タグ:

posted at 21:24:24

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「世の中には経済活動ではないこともある」ダンチョネ〜。

タグ:

posted at 21:28:51

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

政治は政治を分かってない人のためにあるんだよ,ダンチョネ〜。

タグ:

posted at 21:32:34

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

わからない人には享受できないようなもののほとんどはいらないんだよ。

タグ:

posted at 21:33:01

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「本を書かなくても食えるが書きたいから本を書いている」というのは本当に大事なことだと思う。

タグ:

posted at 21:44:05

非公開

タグ:

posted at xx:xx:xx

渡邊芳之 @ynabe39

12年7月15日

「自分がなりたいような人間になる」のもなってみれば辛いことがあります。なるようにしかならないです。 RT @te_yoshimura: こんな風にはなりたくない。年は取りたくない。休むなら過労死したい。

タグ:

posted at 22:29:46

WIRED.jp @wired_jp

12年7月15日

【SCIENCE】「より速く適切に学べる人」:その理由 t.co/P89cDa7C

タグ:

posted at 22:45:28

@mramatsホーム
スポンサーリンク
▲ページの先頭に戻る
ツイート  タグ  ユーザー

User

» More...

Tag

» More...

Recent

Archive

» More...

タグの編集

meec wired_jp nhk 送り火 genpatsu nhk_news iwakamiyasumi kumano tmge クロ現

※タグはスペースで区切ってください

送信中

送信に失敗しました

タグを編集しました