大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月04日(月)
「自我」って本当に絶対確実なものなのかしら? デカルトは「我思う故に我あり」という風に、疑っている自分だけは否定出来ないとしたけれど、でも結局自我って他者(他我)との関係性の中で生じているんじゃないの? ほら、アイデンティティとか。フフッ♪ どういうことかしら?
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posted at 14:07:19
では國分氏は何を論証したのか? エチカが記号と対象(延長)の平行性によって、神を実体と命名できたのが、知性改善論の2つの逆説、つまり無限ループに陥る懐疑論を説得しないという観点だ。これを誤読すると情念やヘーゲルになったりするのだろう。情けない。(・_・;)
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posted at 14:06:13
・・はっきりいってスピノザは、ただ読解には対立項が必要だ、そうだとわからないのなら、その対立項の両輪を証明して上げよう、といっているに過ぎないように見える。それがスピノザの平行論なのだが、近代はこうした言語性の誤読として精神を生んでしまう。
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posted at 13:56:26
デカルトVSスピノザ 体系の変形t.co/CyKAIZIU スピノザは、汎神論だとか神と物質を混同していると非難されたが、それは彼にとっては心外だった。「人々が私の立場は神と自然を同一視する思想に立っていると考えているのは~全然間違いです。」(書簡73)
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posted at 13:54:11
デカルトVSスピノザ t.co/YjTgppUe デカルト二元論では、身体が実体であるため、受動的な精神が身体を支配する能動性が情念だが、スピノザでは実体は観念=言語であるため、感情は単に他人と関わる時に生じる問題にすぎない、等々。
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posted at 13:50:55
次に、ヘーゲルVSスピノザ t.co/Hwb8myoH 実体と証明=命名された自己原因の前に、絶対精神が欲しくなってしまうヘーゲルのスピノザ誤読。しかし、ついぞ弁証法だけでは、自己原因を実体と命名する証明、つまり言語論的な転回は得られない。
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posted at 13:41:33
シェリング対スピノザt.co/RHnsZ8bJ 「しかし、スピノザが本当に異色であるのは、観念と物質とが関わらないと主張したことの方」。観念とは語彙、平行とは言語と指示対象の峻別のこと。
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posted at 13:30:07
量を実在性(リアリティー)ではなく属性にすると、観念を結果ではなく原因とできるというスピノザの方法と、時間閉曲線というゲーデルの決定論の解法、について何か考える方法は無いものだろうか? 日米SFのタイムパラドックス比較で十分な気もするが。(^-^)/
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posted at 10:32:28