大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月09日(土)
■ツイートまとめブログ■主体性の量という信心を放置するサディズム
t.co/0LYnO69L 実在性の量から指導の自動性へ向かう必然性の外部に、主体性の量を信心してしまう人々(^-^)/
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posted at 04:15:59
さて、指導の自動性=存在証明の破棄を齎した、実在性からの量(表象でもある)の排除は、属性で実体を捉え直したことなのだが、その結果、決定論や必然性になった。ウィットゲンシュタインには、トートロジーを排除する事実や事態があるが、様相論(可能的自由?)が問われてるとは思えない。
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posted at 03:19:20
スピノザを、指導の自動性の方法t.co/iPQTiaKg にした國分功一郎氏にとって、量とは実在性の量ではなく、分からなさの量だ。分からない懐疑論者の主体などは、分かるようになる(自動化する)まで、放っておけばいい。それがスピノザの倫理、つまり指導ということだ。
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posted at 03:11:04
同様に、神は何かとは問わないが、自己の主体性はあると信心するt.co/Ej4JZvEP という懐疑論者に対しても、指導者は放置すべきなのだが、しかしそこからは確かに面白い分析が成り立つ。t.co/WWz8AVL9
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posted at 03:04:48
男子生徒が、文中の人間とは?神とは?何か教えろ、それを分かるように教えてくれなければ、自分が国語は好きになれない。自分にはプライドがあるからだ、という時に、指導者がすべきことは、もちろん放置である。(^-^)/
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posted at 03:01:52
ところで、おそらく指示表出の言い換えである國分氏の指導の自動性は、分析というより存在証明するから実在性が量になる、といっているのだと思うのだが、乱暴に考えると、存在証明はもちろん分析の言い換えなのかしら? たぶんそうなのだろう。
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posted at 02:59:42
一々、テクストの神と背比べt.co/8BcFnAqf する(存在証明する)懐疑論者t.co/6dcTE6qJ たち。そういうバカに指導はいらない。分かるまで放っておけ。
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posted at 02:46:18
國分氏の方法。『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を実在性の量の否認で再定式化した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題(自動性)に解決された。量から自動へ。
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posted at 02:35:43
バカ(懐疑論者)は放っておけ。神がいるかいないかではない、神を基準に物事考えなければ気違いになるぞ(神存在の証明手続きの破棄)といってるだけだ、というスピノザの方法(倫理)を読むと、そんな気分になってくる。(^-^)/
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posted at 02:33:57