大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年09月24日(月)
不信にこそ神という理念が必要と思える流れだ。明らかにデカルトースピノザ以降、神は信ではなくなった。むしろ実体化したようにすら見える。そのことで信が生まれたのだから。神を信じるかどうかが一義的に問われることがなくなったのだ。その議論はおそらくデカルト以前だろう。
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posted at 04:15:27
ところで、攝津氏が「『妄想こそ神である』と考えたほうがいい。」と述べたのは、ドーキンスが利己的遺伝子を神として妄想しているという文脈t.co/Hr7z8XAS だろう。攝津氏はそれも含めて信じることが出来ない、という意見なのだが、理念というのは信なのだろうか?
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posted at 03:53:47
昼間授業の合間にツイートt.co/k4ckklDh したように、学校での国語教育は、意見の個人主義化という圧力があるのだろう。しかし、ご承知のように受験では、個人の意見の相対化が問われる。一言で理念といっても過言ではないだろう。
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posted at 03:46:21
したがって、妄想でも意見でも仮象でもなんでもよいが、神という言語上の意味を捨象というより回避すると、人が神になってしまい、かつて社会主義で、人間が自分の力を過信したような悲劇が繰り返される、としか思えない。だから私は意見を持たないで理念しか見ない。
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posted at 03:43:26
なぜか議論が人格攻撃になったり、disられるのを恐れて沈黙するのが、同調圧力に転化したりするのだが、これは意見は全て神(という妄想)まで含めて、個人に帰着するというイデオロギーのなせるわざ、というのが烏賀陽さんの指摘だったわけだ。t.co/kZsnDABI
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posted at 03:42:00
意見は人に帰着する。人は神ではないが神という意見は人に由来する。これはその通りなのだが、それが教育では、個人は真なる意見者になるべきだ、という思想になる。これが先日来、烏賀陽さんが指摘する、人が真理を持っているはず、という人格攻撃の正体。t.co/PQQPittD
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posted at 03:33:02
氏家さんと攝津さんのドーキンスをめぐるツイートが面白かったが、攝津氏がそれについてFBで注釈するのがまた面白い。その中に「『妄想こそ神である』と考えたほうがいい。」という一文があって楽しくなった。つまり妄想だからこそ神が必要という話なのだ。(^-^)/
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posted at 03:23:27
私も高校生には、任意の一段落だけをずっと凝視させ、何が対比で、何が理由で、ということをじっくり考えさせます。その訓練なくして、文が読めるはずがない。なんで読めるようになると考えるのか、理解が出来ないほどです。(^-^)/ @FukushimaKokugo
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posted at 01:20:36
その通りだと思います。(^-^)/ @FukushimaKokugo 本来、子どもに速読を仕込むのは危険きわまりないことだと思う。先程から言っているように、その言葉その文その段落に踏みとどまることによって既知を乗り越える忍耐力を、失わせることだから。
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posted at 01:18:46
慣習法が機能せず、露骨に文言主義が諸法典を縛って圧殺するから、慣習の側が言葉の意味をどんどん転覆させるのよねー。っていう話を英語の先生としてた。たとえば、穿った見方というのは、ものの本質を捉えるという意味なのに、みんな逆の意味に使いたがるとか。ww (^-^)/
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posted at 01:12:06