大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年09月26日(水)
神とか真理とか理念という相手は人(人格)ではないということだから、コミュニストの陥る欺瞞のように人が簡単に否定するのは妄想に追いやられた。@JM_is_alive QT: 神を否定したのが近代とシンプルに思ってました。あーそれでニーチェの近代否定=神は死んだ発言につながるわけか
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posted at 00:00:50
即成近代の日本は神を人格神にするために、未だにデカルト的神を懐疑できるという自己欺瞞に陥るから、海外からみると人間扱いされないよー(^-^)/ @JM_is_alive QT: じゃ近代においては神の存在は疑うまでもない大前提ってこと?全く知らなかったワ
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posted at 00:14:10
うん、キリスト教だと、ローマ皇帝がキリストを神に、つまり神を人格神にしただけだけど、日本では人格神を作るためにデカルト以来の近代を利用したのよ。戦後は、神は人格だからいないという無神論だらけでしょ? 何も議論がない。@LitoSnowfield 戦後に本当に神様が人間になられた
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posted at 00:32:21
そんな風に思っているのは日本の共同主観だけよ。デカルトが近代的自我といったのは、どう見ても神を懐疑しないということと表裏一体。デカルトがしたことは神の懐疑の排斥だけよ。@JM_is_alive 近代的自我を確立させる際に神の出る幕はないような気がするんだけど… いや私全く勉強不足
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posted at 00:34:35
神学の初歩みたいな話なのかしら? 神が人格だという懐疑が、デカルトによって終わったのが近代的自我よ。それで私たちは客観世界が見えるようになったの。でも日本ではなかなか客観世界が見えてこないの。たとえ戦後人格神が駆逐されても、こんどは神は人格だからいない、という話しかない。
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posted at 00:39:00
もちろんです、日本人が神を人格と思うのは、刷り込みです。そんなものいるわけがない。(^-^)/ @JM_is_alive 神=特定の宗教に依存しないなんか超越的な存在って意味なら納得です
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posted at 00:39:52
だから去年から、あらゆる言語の問題は擬人法かそうでないか、ぐらいしか読む場所がないといってたじゃない。人格神はデカルトが終わらせているのに、妄想がいまだにあるからねー。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 00:45:38
デカルトって欺く神がいるから、正しい神を構成しないと、対象の信憑性=実在性の量、つまりリアリティーにならず、科学が出来ない、といっただけでしょ? (^-^)/ @JM_is_alive デカルトがコギト何とかと叫んだ時にそこには決死の跳躍
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posted at 00:47:27
とにかく、神が人格だからいないいない、というコミュニストの妄想というのは、どうしても信憑できない。それによって何が言いたいのかがまったく分からないから。今では神を人格神と想定する妄想者は彼らぐらいだろう。
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posted at 01:06:58
@sunamajiri ゼンゼンかっこは悪いです(;_;)ぼー。早起きできなくて夜勤です。早起きできないのは大きなハンデ。とも言えるしそれなりの選択をかんがえなくっちゃ、です。ヒマなので一生懸命読書したいですが、\(^^)/ツイートしてるっつうの。笑
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posted at 05:04:06