大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年10月29日(月)
現象学的還元を果たした現代思想から見ると、エマニュエル・バッハt.co/JBK7yW6c に始まるクラシック教育がt.co/wrVdZ7qt という錯覚に陥っていることを、脱構築しているに過ぎない@sunamajiri
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posted at 00:00:22
つまり、現象学的還元にとって、第三者の視点が顕在化させてしまう、自動化や機械化や無意識や心なるものは、存在しない。言い換えると、第三者的視点である心理学と生理学の説明は、説明ではない。@sunamajiri
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posted at 00:03:34
おそらく近代クラシック教育が、音感などもろもろの要素を分節化するのも、奏者は聴かれる第三者の相手がいると想定している。この第三者化となる時、二元論がうまれるのだが、当人にとってそういう二元性(心と身体)などというものは、存在しない。無意識も意識だ。@sunamajiri
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posted at 00:05:15
実際に奏者は、聴かれることを前提に訓練されるが、聴くほうはそのような聴き方をしない。奏者のパッセージが自動的なら、その自動性を聴く側も美観で聴くのであり、クラシック教育のいうように、自動性や機械化は価値的に低いのではない。@sunamajiri
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posted at 00:08:11
うん、現象学は、身体の能力を明らかにするのだけれど、当人にとっては自動化された所作も、第三者からみえるように無意識や機械化ではなく、それが当人の能力だ、ということになってしまう。だからクラシックの教育がおかしい。@komitetsu あと第三者を想定した切り口、理解しました♪
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posted at 00:09:40
辻井 勝 Katsu Tsujii @aoinatsunosora
これ、わりとよく読めてるほうだと思う。「京都大学学術情報リポジトリ:メルロ=ポンティにおける "间身体性"の教育学的意義: "身体の教育"再考」 t.co/OZfO1Bru
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posted at 00:17:47
メルロは、抽象的能力の欠損した症例を、能力の説明とする心理・生理学は、説明(分からせること)になっていないとする。抽象的能力とは、ちょうど楽器初歩の人が楽器を構えられないような、身体による空間把握の能力なのだが、たとえそれが自動化しても、それが自動化したことが能力なのではない。
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posted at 00:26:06
ここで問われてるのは、説明(分からせる)になっているかどうかなのだが、身体が抽象的に空間を把握する能力が自動化されるから、行動できるようになるという説明では、分からせることが出来ない。たとえば、楽器の習得では、それでは分からせられないのだ。t.co/wY60aOel
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posted at 00:29:00
たとえば、受験国語で問われる説明t.co/a6MXtkOb の可否というのも、実際には文脈の言い換えであっても、あらかじめなされた説明を、説明しなおす、端的な能力が測定されているだけであるように、あらゆる説明は心理学的・生理学的な説明より端的なはずだ。
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posted at 00:32:28
個人的には、メルロのテクストt.co/b0y2r5Knをどう誤読すると、統合失調になるのかに興味がある。知り合いのメルロ研究者はピアニストでもあり統合失調後、身体運動がおかしくなった。
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posted at 00:45:45
じつは昨日のアッシーは、そのメルロ誤読で統合失調になったピアニストとの唯一の接点で、私は危険人物なので面会謝絶だが、彼を通じて最近の病状が伝わるのだが、投薬のせいもあり、ますます身体が言うことをきかなくなり、ピアノも弾くがリズムが取れなくなっているらしい。@sunamajiri
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posted at 00:55:06
世界内存在の端緒を更新する記述は、現象学的還元が完全な還元の不可能性の発見であったゆえに、むしろ身体を変容させる教育(世界を分からせる説明的行為)としてこそ意義がある、という奥井氏のメルロ的教育論t.co/tcOlG4Cu なかなか読みやすかった。
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posted at 06:27:03
とくにフッサールの生活世界に対して、生きられた世界が身体によっていかに更新されうるのか。この更新され続ける世界が、還元されざる現象学的営為であり、すなわち身体による世界の更新こそが、端的に教育だ、という命題化は、大変分かりやすい。@sunamajiri
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posted at 06:34:40
ところで無意識や自動化や機械。現象学的還元は、身体にとっては実は世界の更新でしかない、というメルロ的な生きられた世界では、機械的な身体ですら生きているので、客観科学の側が人間を機械論で捉えても、説明されたことにならないのは当然。説明とは常に世界の生きた更新。
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posted at 06:57:14
SFでは機械に対する物語フォーミュラが、機械を凌駕する神化の存在論と、その存在論が欠如して機械化したがる日本のSFで対照的にみえるよね。久しぶりにこれ観ていた。探査機ボイジャーが数百年後に創造主と合体しようと地球を襲う話。
t.co/hPIGxgcp
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posted at 06:57:24
本当にメルロは、サルトルと対照的に、生きるために書いているよね(身体による世界の更新を記述している)。t.co/8OTesNQh 書くという欲求は生きることの拒否に包まれている。サルトル『言葉』
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posted at 07:34:43
このように、記述とは常に現象学的更新なので、その点しか採点基準がないという。どんな自由作文的な課題文でも、一端それで客観テストをして採点しようとすると、選択肢だろうが説明を求める記述問であろうが、端的に世界を更新する説明になっているかだけが、採点されるからね。
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posted at 07:39:33
なんかTLにラカニアンなRTがあったのだが、そう考えるとやはり、t.co/cwzike5Q 「ラカンはメルロ=ポンティを都合よく読んでいる。」という妥当性だけが、際立ってしまうという。(^-^)/
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posted at 08:14:56