大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年11月08日(木)
女の子が、t.co/1ZT0G0g4 をみて、なぜ今の若者の生きた言葉ではなく、少し前の文が出題されるのか不公平だ、先生、今の若者言葉分かる?という反論をしにきたので、出題文は何かが明確化された文、あなたには確信がある?って訊いた。@NudistExercise
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posted at 23:18:37
世界を曇らせる誑かしが言語の中にある。だから言語は正確度テストの対象となる。たとえば、写真やストリートビューだけみて、その場に行った(属した)体感はない。実際に行ってみないと、その場は現れない。誑かす言語というのは、行ってもいないのに行った気にさせる言語。@sunamajiri
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posted at 23:00:22
そうですね、単語と文法に分解してしまう「外国語」は、音読することで、一歩ずつ言語化=身体化、端的に言うと身につきますよね。問題は、身についている母語のほうで、誤って身について妙な常識に捕われていたりすると、世界が見えてこず、意識が混濁してしまう。@NudistExercise
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posted at 22:50:55
指示問題を偏重できなくなってきた最近の現代文には必然性がある。現象学とは表象によって混濁する意識、つまり世界の取り戻しのようなものだが、診断をするために国語テストが文を抜粋するとは、そうした世界がある文ということで、それは単純な指示関係だけでは診断できない
@sunamajiri
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posted at 22:37:24
国語テストでは、書かれた物自体ではなく、出題された抜粋された文自体であり、それを読む=運動を停止させる(指導者の)注釈は文中を指示しなおし、抜粋文自体ではない。つまり抜粋文とは固有の指示関係なのだが、出題意図はそこにはない。@sunamajiri
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posted at 22:32:52
この読む=運動は、メルロから援用してるのだが、このスレッドは実は、受験国語を教えるとは注釈か?という@Tomohokubo さんの問いを、(現象学から考えられないか)思考実験しているようなもの。文中を指示しなおす注釈は、書かれた物自体ではないからだ。@sunamajiri
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posted at 22:02:56
それが読む運動性。ちなみに評論に《「神という実体」という観念》が書かれていれば、それは神と言う場面を表現しようとしてはいるが、しかしだからといって小説の場面のように「神という実体」が見えるのではない。この見えない物に躓く時に、読む運動性が止まる。@sunamajiri
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posted at 21:44:25
評論にないものは場面や事柄。小説にないものは観念や心情。例えば評論に神という言葉が書かれていたとしても、それは神という場面や事柄としては表現されていない。それに対して、小説の場面には神という観念は書かれない。あるのは事柄だけ。正常者の読みはそれに躓かない。@sunamajiri
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posted at 21:30:22
読む運動は臨機応変ということ。だから音読練習させることもあるし、フォトリーディングに近くなることもある。しかしより重要なのは、評論では小説のように事柄が直接書かれているのではないという読み。ついでに、だからこそ、事柄が場面の中にある小説出題はなくならない。@sunamajiri
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posted at 21:17:05
(とくにセンター試験の)小説問題は事柄で心情を、評論問題は観念で事柄を、現象学的測定される。だから、国語の受験勉強は、読むという運動を止めない練習。病者は注釈や要約で一々読みが止まる。読めない状態と病者は同じ。t.co/bkbDvnPo @sunamajiri
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posted at 21:05:07