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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2012年11月19日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

もう生理現象まんどくさいからwwww はやく脱身体化、脱実体化したい、なんていうと日本人が大好きなリアリティーの話と同一化して、もどき函数になってしまうから、要注意(^-^)/ @sunamajiri

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posted at 00:30:12

千のプラトー:資本主義と分裂症 @plateaux_bot

12年11月19日

書くこと(エクリチュール)は意味することとは縁もゆかりもなく、測量すること、地図化すること、来るべき地方さえも測量し、地図化することにかかわるのだ。――(上)p18

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posted at 01:33:45

ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp

12年11月19日

客観的なイデア世界が主観の中で蘇生し、自然の中で活動しているものが同時に人間の精神の中で生きて働く時に、主観と客観は出会う。こういう場合にのみ主観と客観のあらゆる対立が止揚される。-ゲーテの自然観-

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posted at 02:03:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

昨日の話ではないが、国語での小説出題を文学と混同はできない。あくまで言語か実体か、というのが国語のテスト。そのためには実体や事物を描写しない評論文より、国語テストは小説問題であるべきとさえ言える。事物ではなく言語として読み取れるかの測定だから。@sunamajiri

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posted at 10:13:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

ここt.co/RL9R6UXi でも触れたが、小説出題は単に廃止できない。理由は二つで、まず小説には評論にはない場面内があるから。国語のテストはあくまで実体と言語の区別。場面内の事物から言語化する能力は、文学ではなく国語の問題。@sunamajiri

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posted at 10:25:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

評論だけで国語テストが不十分になる二番目の理由は、日本の近代論では実体と言語の区別が、言語論的転回や脱構築に至るまで未分化なので、抜粋評論文では、国語テストの目的である実体と言語の区別を測定しきれないという点。だから日本近代文学で国語テストするしかない。@sunamajiri

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posted at 10:28:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

国語テストが何を測定しているのかを神秘化してはいけない。それでは単に文学の問題になるだけ。国語テストでは、あくまでも実体と言語の区別t.co/1rh87Mda だけを厳密に測定するだけ。分るというのはそういうこと。@sunamajiri

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posted at 10:37:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

小説出題が文学的テストに見える、という捉え方が、そもそも言語を実体的に捉えていて、確定記述のようにはならない。むしろ小説出題の必然性は、評論では実体と言語の区別が不可能で、場面内で身体論的に言語と実体が区別されるから、というだけ。実際に言語は実体ではない。@sunamajiri

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posted at 10:39:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

いや、そういってしまうと作品論になってしまう。国文学研究自体がテクスト論になるのが遅れたように、国語と文学は切り離さないと。あくまで即物的に展開される場面内言語が、そのまま読めるかだけでしょう。中学入試で小説出題が多用されるのもそのためだし。@NudistExercise

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posted at 10:47:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

そうです。たとえば昨日とるねぐさんがt.co/vpMLrUgq と例示したのが分りやすいように、小説の場面の中に読み手は介在していないというだけだから。これは場面内のある小説でないと直接判定できないはずです。(^-^)/ @NudistExercise

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posted at 10:54:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

そうです、国語(言語)教育は、文芸や文学趣味の教育ではないですからねー。言葉を勝手に実体化せずに言葉どおりで読めるか、という正確性だけだから。@NudistExercise 自称「読書好き」なおんなの子が、悲惨な点数しか取れないのも、国語と文学を混同しているのが原因と思われます。

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posted at 10:56:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

読者が場面内に居ないのが小説テストなわけだけど、もっと端的に言うと読み手が場面の外、つまり神の視点であるのを自覚できるかというテスト。これはちょっと極論だけれど、小説言語が日本の近代性の本体だったのも、小説でしかこの場面の外、を具現できなかったから。@sunamajiri

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posted at 11:04:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

ところで、国語テストは言語と実体の区別のテストというのは、デカルト的な神要請としての近代性を相対化するスピノザ的な言語観。国語を文学のように実体的に読んでしまうのが、まさしくデカルト主義。国語はスピノザに徹すると満点、と喩えると具合がよいのよね。@sunamajiri

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posted at 11:10:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

もうお分かりのように、他人の書いた文学で、自分の内面や心が噴出してくるような文芸的な読み方、つまり言語を実体化する読み方というのは、とても非スピノザ的、言い換えるとデカルト的。記号VS意味という表象論では不十分で、単純に言語VS実体。@sunamajiri

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posted at 11:14:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

つまり国語テストをシンプルに言語と実体の区別テストと思えないと、小説テストの意味を履き違えてしまう。それは日本の近代論というのを難読化する直接の原因。日本的近代とは、小説言語で場面の内と外が画定したことで、言語と実体という存在論が日本に芽生えたというだけ。@sunamajiri

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posted at 11:18:26

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

ということで、小説テスト廃止論こそ、国語を文学として実体的に読んでいて、国語本来の言語と実体の区別を教育できていない、という話でしたー(^-^)/ @sunamajiri

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posted at 11:20:30

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月19日

もしかしたら、上方言葉=大阪弁が、大人言葉だからかもしれないぬ (ω) @Tomohokubo 大本先生のはるかぜちゃん語もおもろいから大阪人として腹立つぬ(ω)

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posted at 23:20:06

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