大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年11月28日(水)
そうよ、お話のすり替えを、再生産みたいに信仰してきたのが日本的近代、ところがそれが無限にすり替えできなかったので、経済とか行き詰っちゃって、さあたいへん。だからバカはきらいなのよーww(^-^)/ @LitoSnowfield その終わらないすり替え作業が…無限地獄
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posted at 00:39:54
内面がないということと、自分の心理や内面を突き放して捉えられることとは、対立項だからねー。内面を突き放せる能力があれば内面なんてなくなる。(^-^)/ @sunamajiri 自分の内面を突き放して考える@LitoSnowfield その鏡面性を気がつけない
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posted at 01:10:01
つぎに法的な関係性は心理とは関係ない、という問題があるよ。心理的な人間関係のつもりでも、それは別に法的な実体ではないから。心理は実体ではないよ(^-^)/ @sunamajiri 内面を突き放せる能力があれば内面なんてなくなる。
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posted at 01:17:01
このように心理的な思い込みの人間関係は非実体的なのは当然として、法的な人間関係、つまり社会的なものがじつは実体なわけよね、やはり(^-^)/ @sunamajiri 心理は実体ではないよ(^-^)/
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posted at 01:19:21
このように、実体という術語は、たいへん便利。本当にあるものを対立項から暴き出す時に、実体か非実体かで対比すると、すぐ本物がわかっちゃうよー。みんなも意識的に使ってみよう(^-^)/ @sunamajiri
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posted at 01:21:18
それこそ左翼のS君のように、法的実体でしかない組合を内面のイデオロギーにするから、個人ではない対等な利害関係という組合が過小評価され、個人主義ならぬ孤立主義という、非対等な主従関係に戻っていくのよね(^-^)/ t.co/Apfv0Ogb @sunamajiri
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posted at 01:44:03
内面に一物がある人はある種のコミュニケーションから退去して、押し黙って内面自体になるよね。つまりコミュニケーションとは非内面自体。内面がなければコミュニケートできるはず。(^-^)/ @sunamajiri 内面を突き放せる能力があれば内面なんてなくなる。
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posted at 09:25:10
内面こそが前近代的共同体で、コミュニケーションとは非内面自体、近代自体だといった転回は、コミュニケーション論的転回と呼ばれるようだが、カント的である転回的認識とは、単に実体ではないということに思える。認識は実体を認識しない転回のようなものなのだろう。@sunamajiri
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posted at 09:36:29
転回も認識の変種、つまり内面なので、コミュニケーションのようなものではない。このように、認識したつもりで内面を持ってしまうと、なかなかコミュニケートできなくなってしまうものなのだろう。つまり相手から隠すようになってしまう。認識にはそういう作用がありそうだ。@sunamajiri
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posted at 10:06:44
じつは私の小学校高学年の頃に大好きだった口癖が、イデオロギーからの脱却というフレーズだった。今の言葉で言えば、相手から何かを隠そうとして内面化させるのではなく、すべて晒してしまおうという程度の意味だろう。それは内面の吐露ではない。つまり認識ではない。@sunamajiri
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posted at 10:09:44
どうも内面化は、晒されることを脅威と思う、恐怖心のようなものに見えてしまう。おそらく認識というのも単なる恐怖心かなにかなのだろう。だからつねに転回しつづけるのかもしれない。それらの内面に、つまり恐怖心から隠し続けようとする人々に、用事はなさそうに見える。@sunamajiri
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posted at 10:14:03
内面化させる認識、コミュニケートさせない認識は、そもそも標識による無碍遡行のことだった。言い換えると信仰心のようなものだ。しかも、内面が無限化してしまうような認識は、自分を無限化しているわけであり、まるで人神化のような、ある種のフェティシズムなのだろう。@sunamajiri
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posted at 10:22:26
そう考えると、コミュニケートできるものとはフェティシズム以外の何かだ、あるいはコミュニケートできた実体は、フェティシzムや人神化以外の全てを包摂しているということになったりするのだろう。だから実体やコミュニケーションでフェティシズムを相対化できるのだろう。@sunamajiri
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posted at 10:25:45
ところで、述定のようなものとは、誰かの断定ではなく、言葉の包摂関係や布置による定着のことだ。ある単語をある動詞で述べれば、ある意味になるということであり、その主語が誰か個人や主体や内面を指示しているわけではない。当然のことだがそういうのが読めない人がいる。@sunamajiri
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posted at 10:29:51
じつは多くの場合コミュニケートできず、内面という無限遡行で信仰の問題のようになる人々が喪失しているのが、この物主語のような、つまり自分を第一人称としないような、述定という言語のありようなのだ。言い換えると、コミュニケーションは述定なのだろう。@sunamajiri
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posted at 10:32:07
内面があると思うとコミュニケーションから撤退させられ、実際のコミュニケーションは述定のように、つまりイデオロギーではなく、詩のように単語を布置しつづけてしまう。@sunamajiri
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posted at 10:37:21
それこそ、コミュニケーションを内面を隠すものと思っている人は、ツイッターで言葉を布置するコミュニケーションt.co/JZLvq7MA をしたりしない。つまりコミュニケートしないし、そういう人は存在しないも同然なのだ。@sunamajiri
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posted at 10:41:43
相手を心だと慮る上滑りな人には、じつは心がない(^-^)/ @LitoSnowfield 「内面がある」とされる方にとって「内面がない」というのは、とても恐怖のようですね〜(*uou)? 本当はとてもスッキリしたことなのに
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posted at 10:52:44
身体を探す必要はない。身体はすでに私と共にある。――私は運動の目標点に向かってそれを導く必要はない。身体は最初から目標点に触れており、まさに身体自身がそこに自己を投げかけるのである。運動における、私の決心と私の身体との関係は、魔術的な関係である。『知覚の現象学』
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posted at 10:52:54
おそらく単純な齟齬がある。現代文的には心など無いが、戦後教育的には心の共同体になろうとしている。いいかえると近代化は脱共同体のはずが、近代を解体して公平とする戦後では、心が共同体になった。@LitoSnowfield
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posted at 10:59:09
戦後教育的には心の共同体を目指しているように錯覚されるので、それを相対化する現代文的には心がないという。その齟齬が分らなくなってしまうと、それこそ相手に心ばかり読みに行き、読解やコミュニケーションから敗退してしまうという。@sunamajiri @LitoSnowfield
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posted at 10:59:33
たとえば、センター小説テストも、心のテストではない。評論は書いてあることのテストというが、それなら小説テストは、言い換えのテスト。それを心=心情というから、分らなくなる。心情とは心ではなく、言い換えのこと。それはテストでなくても同じというだけ。@LitoSnowfield
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posted at 11:05:14
身体を認識しようとして探すとイメージ(表象や代表)t.co/mZE5ynjS になる。つまり身体t.co/73RsL2fU とは認識の対象ではないということ。文字と身体は認識されない。そういうものを実体という。
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posted at 11:09:16
まとめると、身体を探す心身二元論的な心=内面は、身体を表象=政治的代表とするイデオロギーとなるということ。このように身体性は心によっては探せない。それが認識できないもの、対象ではないもの、としての身体という実体。それは文字も同じ。実体とは認識できないもの。@sunamajiri
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posted at 11:17:42
アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 @AntiOedipus_bot
(…)あなたは神を信じますかと問うひとに対して、私たちは、厳密にカントあるいはシュレーバーの仕方で答えなければならない。「もちろんですとも。ただし、それはただ、離接〔選言〕的三段論法の先生を信じ、この三段論法のアプリオリな原理を信じるのと同じことなのです」と(…)。――p35
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posted at 16:34:15