大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年12月04日(火)
文を単語化=名詞化させたいという欲求ほど強いものはない。それは実体を観念化するようなものだ。単語化とは他の述定文に転じたい欲求なのだが、しかし大抵は名詞となり言語は終わってしまう。こうして檀家制度のような読ませない共同体になっていくのだろう。@sunamajiri
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posted at 01:42:01
読解における難読性も、西欧哲学まで、仏教用語で単語化して、文とならないということに過ぎないわけだが、この文を読解させないものが、日本ではこうした檀家制的共同体だったわけで、それによって寸断された難読性を、文に戻すということが、とても重要と痛感してしまった。@sunamajiri
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posted at 01:30:14
読経させずに、お坊さんだけが経典に触れ、檀家を取り仕切るというのが、おそらく日本的な共同体の実態なのだろうが、それに拮抗して自ら音読するというのは、確かに風当たりが強いのは分る。しかし檀家制的共同体ゆえに寸断されているものを纏め上げる力があったのだろう。@sunamajiri
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posted at 01:27:13
そういえば、夜に話した考古学者が同じような話をしていて、神社は商売が下手だから必ず寺が寄り添うようにしてある。伊勢神宮でさえ寺が隣接して寺は稼ぐといっていた。稼ぐビジネスとしての仏教、そういうものが言語を実体化させず、受身で難読化を生み出しているのだろう。@sunamajiri
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posted at 01:16:36
その教徒の人たちの法華経解釈をいくつか質問してテストしてみたが、実体としての言語という合理的なものであって、むしろ檀家制のような日本近代仏教の不合理が目立つばかりだった。@sunamajiri
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posted at 01:13:38
自らが言語として実体化していこう、という読経を修行とせず、修行といったら修験道や荒行と、土着信仰の先入観で捉えるために、読経はお坊さんに、という日本仏教のあり方は、たしかに書き言葉の難読化の回路と同様、かなりおかしい。音読は読解でも最良の修行だしね。@sunamajiri
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posted at 01:05:17
話をうかがうと、檀家制とか、お坊さん頼んだらお布施という、日本近代仏教のようなことになっておらず、信徒自らが読経するというのは、言語の実体化としては、非常に合理的だし理解できるものだった。むしろまっとうな法華経解釈なのではないかと思えるほどだった。@sunamajiri
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posted at 01:00:51
読経といえば、きょう例の教徒の方々が訪問され、あげてもいいか?というので、ご自由にといったら、法華経をあげておられたけど、聴いているとラリりそうになった。言葉が実体化している音感はあった。(^-^)/ @sunamajiri
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posted at 00:57:58