大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2013年02月14日(木)
デカルトなら神観念要請によって成立したコギト=エポケーを、さながらフッサールは虚構の神でも何らかな実在性でも、等しく志向できる時、意識は本質的だといってしまう。非幾何学的で異様な反省だ。@sunamajiri twitpic.com/c3jeka
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posted at 14:57:08
コギトを自明性と言い換えて懐疑するフッサール「表象された対象が実在しようと、仮構されようと、反意味的だろうと、意識にとって与えられた志向は本質的に同義」をめぐる田口博論一章。@sunamajiri twitpic.com/c3jb02
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posted at 14:42:17
フッサールのイケナイところは、弁証法にもなっていない事柄を、本来一と多に関わるしかない定義という方法で、思弁的に一々「何々とは何々だ」と言明してしまい、循環論を量産するところだな。あまり賢い(書き手)とはいえない。ただそれだけ。批判は楽しいのかも知れないが。@sunamajiri
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posted at 11:29:05
確かに田口さんの博論が、アマゾンレビュワーのドグマ的という指摘www.amazon.co.jp/review/RBLU318... で、國分氏の博論よりつまらなく感じるのだが、しかし哲学部の博論など、哲学の証明であるはずもないのだから、十分に楽しめるフッサール論なのではないか?@sunamajiri
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posted at 11:19:02
このデカルト的延長=リアリティー(スコラ的無限遡行)から、スピノザ的奥行への転回(國分氏の哲学の解決)から見ても、レビュワーwww.amazon.co.jp/review/RBLU318... が指摘するフッサールのエポケーの入れ子の原自我は、定義不能性=造語なのか? @sunamajiri
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posted at 11:01:03
エチカを証明の破棄として読む國分さんの総括twitpic.com/9t3zog のとおり、神という名目に転倒すると、実在性の量=リアリティーだけが問題となり、テクストが実体化しない。つまり読めないという状態。mobile.twitter.com/sunamajiri/sta... @sunamajiri
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posted at 10:43:14
定義というのは、どんな場合でも一と多に関わるから、それを証明すれば、神要請的なデカルトのような実在性の量=リアリティーという無限遡行に拠らずとも一を証明できる、というのはエチカを証明手続きの破棄として読んだ國分さん。@sunamajiri twitpic.com/c3hgc8
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posted at 10:26:32
一と多というスピノザ的Q.E.Dとフッサールのデカルト的循環www.amazon.co.jp/review/RBLU318... から、この対話www.evernote.com/shard/s157/sh/... の「像」(ここでは本の心=表象のこと)だけが唯物的で現象というのを、朝テクスト堪能タイムに考察中。@sunamajiri
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posted at 10:04:38
靴箱かわいい(^-^)/ @murauchi_fumi QT: 無事、バレンタイン任務完了いたしました。6歳女子はワイルドにクッキー生地を伸ばして型抜きしていた。保育所の靴箱にこっそり入れておく昭和なスタイルで渡すとのこと。p.twipple.jp/izhCJ
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posted at 09:05:31